金印
きんいん
中国歴代王朝で使われていた金の印章。周辺の冊封国にも贈られた。
文書を送る際に紐で結んで粘土で留めておき、その粘土に印を押して使用する。こうすることで送る途中で文書が読まれていないかがわかる。普通の判子とは違いインクを付けて押すものではなく、文字の部分がへこんでいる。
ツマミの部分は動物の形を模していて、贈る国の位置によって動物の種類が決まっている。北方ならラクダ、南方なら蛇の印が贈られる。
日本には奴国と邪馬台国に贈られたという記録が残っている。邪馬台国のものは発見されていない。もし発見されたら邪馬台国の位置がほぼ確定する可能性もある。奴国のものについては後述。
江戸時代に志賀島で農家の甚兵衛が金印を発見した。どんなものかを調べるため福岡藩の手に渡り、藩校で調べた結果漢王朝から倭の奴国に贈られたものだという結論になった。この説が現在でも一般的となっているのだが、この印には漢委奴国王と彫られている。「倭」ではなく「委」となっているが、「委」を「わ」と読むのは無理がある。このため「奴国に贈られたものではなく別の意味がある」という説もある。
「偽物説」もある。「この部分がおかしい」と指摘されても、後に発見された金印に同様の特徴が見つかることによりその反論が否定されるということを何度も繰り返している。それでもなお偽物とされる根拠は残っているのだが、わざわざお金をかけてまで偽物を作るメリットがないという疑問点がある。ましてや江戸時代は金山がほぼ幕府が管理している状態なので作るのも難しい。
ほかにも「委奴」を「いと」と読んで「伊都国に贈られたものだ」という説もある。
また、なぜ志賀島にあったのかという点も謎となっている。
ツマミは蛇の形をしているが無理やり作り替えられたような跡がある。ラクダを作っている途中で何らかの理由で蛇に作り替えたようだ。
金印の鑑定をした亀井南冥の所属する甘棠館はできたばかりの藩校だった。しかし亀井は失脚し甘棠館も火事などによりわずか14年で廃校となった。亀井の自宅も火事に遭い亡くなっている。亀井の失脚と二か所の火事と金印は何か関連がありそうにも見えるが、関連を裏付ける証拠は見つかっていないため推測の域を出ない。