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日本独自の数学。発達したのは主に江戸時代

歴史

初期

1627年、『塵劫記』を京都の吉田光由が書いたことで和算は本格的にスタートしたと言われている。

『塵劫記』は「命数法や単位、掛け算九九などの基礎的な知識のほか、面積の求め方などの身近な話題をもとに解説し、これ一冊で当時の日常生活に必要な算術全般をほぼ網羅できる内容となっている。」(出典:Wikipedia日本語版「塵劫記」2018年6月22日版

この本は様々な学者たちに影響を与え、後述するある和算の大家もこの本を読み算術を独学で習得したと言われている。

また、当時は江戸幕府の治世で安定し、多くの武士が「これからの世の中は力強いやつより頭良くて計算できる奴が出世できるんじゃね?」と考えていたためその様な人物がこぞって登用され、中には数学書を書く者もいたと言い、和算は発展していった。

『塵劫記』の教える四則演算は小学校算数を集大成したような内容であり、その後に提示された遺題の難問は、高校大学レベルの数学の問題だった。

「全く質的に異なる数学が必要となったのですが、当時の日本にはそれに対応するための手立てがありませんでした。」(出典:第1章 江戸時代初期 | 江戸の数学

そのため、塵劫記は後の和算家達の原動力にもなった。そして分からない問題を後世に託す遺題継承が頻繁に行われていた。

この頃の和算の中心地域は大阪、京都などの上方であった

全盛期

江戸関孝和が登場したことで和算は最盛期を迎えた。関は独自の和算記号(今の数学のxみたいなやつ)を作ることで和算をやりやすくした。また方程式を作ったり円周率の正確な近似値を求めたりチートっぷりを発揮した。筆算を作ったのもこいつである。関の登場で和算は代数幾何解析など実用以上の発展を遂げた。関の死後も関流という数学の流派ができ、和算の中心であり続けた。この頃には和算の中心地は江戸に変わっていった

江戸時代後期になると8代将軍徳川吉宗が洋書輸入の禁止を緩和させたため、西洋数学が結果的に伝わり、和算はさらなる発展を遂げた。

「また、江戸後期に入ると和算ブームは地方や庶民層にも波及。その牽引役となったのが遊歴算家である。彼らは全国を旅し、求めに応じて行く先々で数学を教えた。彼らの活躍により、日本の隅々まで高度な数学が広まっていった。」

(出典:武士や農民が数学で腕比べ 和算文化は江戸の華

「世間の数学界では、このころすでに遺題継承の風習は廃れてきていたが、一方、神社や仏閣に数学の問題を載せた算額(絵馬的なもの)を掲げ、それを見た人が解くという算額奉納の風習が盛んとなり、数学者の意欲は衰えることがなかった。」

(出典:Wikipedia日本語版「和算」2018年5月15日版

東北の会田安明は、関流の藤田貞資の門に入ろうとしたが、自身が掲げた算額を藤田から批判されたのをきっかけに言い争いを起こして対立し、ついに独自の一派『最上流』(郷土山形の最上川にちなむ。音読みでサイジョウリュウ。主に東北地方で栄えた。)を立ち上げ、関流に対抗した。しかも若い頃の会田は、関流の算法や点竄術を知らずして、独自に天生法という点竄術と同等の術を発明していた。」そのため、最上流も関流に対抗する一大勢力となっていた。

(出典:Wikipedia日本語版「和算」2018年5月15日版

また和算は実学としても農林漁業、幕府の天文方(天文学を使って暦とかを作る機関)、地方行政、職人の手間賃の計算、織物の「布に織り込む模様のパターンを数値化して記録する」等威力を発揮した。

(出典:第4章 実学としての和算 | 江戸の数学

衰退・乗換え

明治に入ると和算は衰退の道をたどることとなる。理由は、明治政府が学制を出すときに「これからは西洋数学の時代や!和算やったらあかんで。(意訳)」と言ったためである。実際は西洋数学が分かる人がほとんどいなかったから意味はなかったのだが、徐々に和算は衰退していった(ちなみに西洋数学が分かる人がほとんどいなかったためそろばんだけは必修科目に残った)。

これだけ見ると明治政府がひどい気もするが、和算を修めた人達が西洋数学を選んだ訳である。つまり和算より西洋数学の方が長けていることを認めたということである。実学の観点から言えば、和算から洋算への転換は列強の領土の奪い合いへの早急な対応や科学技術をめぐる全般的な方針転換に伴って生じた必然的な動きだったとも言えるわけである。

また、全く新しい西洋数学をあっさり受け入れられたのも和算の基礎が西洋数学に活かされたことの裏返しともいえる。

現在

明治以降使われなくなった和算だが、和算家達は少しでも和算の歴史や内容を残そうと記録に残したため和算の消失は免れた。現代では和算の文化や内容が各方面で見直されてきている。

「首都圏の私立学校を中心に、和算を授業に取り入れる動きも出てきています。」また、中学受験では和算の問題が出題されることが非常に多い。

「また和算を題材にした小説や漫画など和算を扱った書籍も最近では数多く出てきているようで、数学が好きな女性(いわゆる数学女子)を中心に密かにブームになっている」そうである。

(出典:和算(わさん) - 日本独自の算数 - 和算ナビ

特徴

内容

和算で解析学を研究したものを円理といい、積分を利用し、多くの問題を和算家達は解いた。しかし、関数グラフといった概念がなかったため微分の問題はほとんどない。

「和算の中心的な手法は数値計算であって、特に関孝和の頃は、図形の問題はピタゴラスの定理など簡単な関係を用いて代数の問題に直して処理していた。」しかし、算額の問題には多くの円や楕円の問題がある。「近年、和算で発見された幾何の美しい定理は注目を浴び、日本国外にも広く紹介されている。」しかし、最後まで作図問題はあまり扱われずやはり計算による方法が主流だったようだ。

(出典:Wikipedia日本語版「和算」2018年5月15日版

計算道具

算木という計算道具やそろばんが使われていた。そろばんは今でも残っているのに対し、算木はほとんど認知されていない。算木は和算家によって専門的な計算をする際に使われた。

問題

問題には楽しいストーリー性がある。例えば若い少女を好きになってしまった男性の禁断の恋を題材にしているものや、家督相続で遺産をどう分配するかといった生々しいものがある。

算額

先述した通り、神社に奉納された絵馬的なもの。平面図形に関する問題の算額が多い。最初は「神様仏様!あなたたちのおかげで問題解けました!ありがとナスこれからも和算頑張りますのでオナシャス!」というものだったが後にプロアマチュア問わない数学の問題の発表会となった(どうしてこうなった)。

中には難問や問題だけを書いて解答を付けずに奉納する猛者も現れ、その問題を見て解答を算額にしてまた奉納してそれを知った出題者がさらに難しい問題を作る、といった無限ループが繰り広げられた。ちなみに算額奉納の習慣は世界に例を見ず、日本独自の文化である。もっとも古いものは栃木にある1657年のものであり、新しいものでは昭和のものもある。

近年、算額の価値を見直す動きが各地で見られ、一部では算額を神社仏閣に奉納する人びとも増えている。

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