概要
江戸時代において活躍した日本の国学者であり、全盲であったことで知られる。延享3年(1746年)に武州児玉郡保木野村(現:埼玉県本庄市児玉町保木野)に生まれた。幼名は「寅之助」、失明後に「辰之助」と改め、一時期は「多聞房(たもんぼう)」とも名乗っていたという。
人物
生まれつき体が弱く、7歳の時に肝臓を患った影響から視力を完全に失ってしまう。それでも彼は人生を諦めることなく10歳の頃に学問の道を志し、12歳の頃に最愛の母を過労死により亡くし悲しみに暮れながらも、江戸に出て学問を学ぶために父を説得して15歳で江戸へと出向いた。
しかし、当時の時代は盲人には学問は無縁と考えられていたことから、職業は按摩や鍼などの医術、三味線や琴などの音曲などに限られており、保己一も当初はそうした仕事をこなして生計を立てていたが、もともと学問を学ぶために上京したため上手く身につかなかった。それが原因で自殺しようとするまでに思い詰めたが寸前で踏みとどまり、仕事の師であった検校(けんぎょう:目の不自由な人に与えられる最高官位)の雨富須賀一に直談判し、保己一の一途な熱意に心を動かされた須賀一は、様々な学問を彼に学ばせるようになる。その後、保己一は萩原宗固(国学・和歌)、川島貴林(漢学・神道)などの一流文人から教えを受け、国学の大家である賀茂真淵にも師事し、水を得た魚の如く吸収していった。彼は目が不自由であったため、誰かに書物を読んでもらいそれを聞いて記憶するという方法をとっており、それ故か長く難しい書物も一度聞いただけで覚えてしまうという驚異の記憶力を持っていたという。
『群書類従』編纂
その後、『神皇正統記』や『懐風藻』など、貴重な古書も数多く記憶した保己一は、それら書物を散逸させてはならないとして、学んだ知識を活かしそうした古書を収集・編集し版本『群書類従』として後世に残すため、34歳から貴重な古書を求めて全国を回り、集めた古書の写しを和学講談所に持ち帰り編纂を始めた。写本作業は自身の門弟である屋代弘賢や中山信名らと慎重に行い、写しを版木にする際は版木師の手を借りて行われた。そうして作業を続け、編纂・刊行を決意してから41年後、74歳にして長年の夢であった『群書類従』を遂に完成させた。本書は現在でも文化的財産として残されている。その翌年、保己一は75歳でこの世を去るが、同年に盲目の人々の社会における最高位である「総検校」に選ばれる。
ヘレン・ケラーの「心の師」
生まれて間もなく視力と聴力を失ったアメリカの教育者であるヘレン・ケラーは、保己一を目標として苦しいときも辛いときも努力して乗り越えることができたという。