概要
社会を構成した主要な4つの身分のうち武士が一番偉くて、その下に被支配階級(庶民)である農民(百姓)・職人(工)・商人の3つの身分があるという考え方。
※職人と商人はまとめて町人とすることもあった。
武士は支配階級であり日本刀や苗字の所持(苗字帯刀)が許されていた。また正当な理由(正当防衛)があれば他の身分の者を殺害しても良いという特権(斬り捨て御免)もあった。
今風に言えば上級国民である。
武士の次に偉いのが当時の人口の約85%を占めた農民とされていた(年貢を納めるという重要な役割を果たしていたため)。次が職人、最後が商人。
職業選択の自由が認められている現代日本と異なり、「生まれた家で職業がほぼ決まってしまう」という現代社会でいう失敗国家のような状態だったとされている。また結婚に関しても制限があった。
士農工商に属さない身分
天皇・皇族、公家、僧侶、医者は上級の武士と同格とされ、高い地位にいた。
また農工商より下の身分として穢多(えた)・非人(ひにん)というのもあった。
実態
実際には武士の中でも裕福な暮らしを送れたのは大名や旗本などの幹部クラスに限られており、下級の武士は被支配層と同様の貧しい生活を送る者が少なくなかった。
逆に裕福な農民、職人、商人もおり、特に一部の豪商は大名でも逆らえなかったほど。
また「身分は変えられなかった」というイメージが強いが、実際には「農民から武士になる人」や「武士の身分を買う町人」、逆に「生活が苦しいので武士の身分を売ったという人」も少なくなかった。
例えば初代内閣総理大臣である伊藤博文の父親は貧しい農民だったが、後に武士になっている。
その後
明治時代に入ると士農工商のような厳格な身分制度は廃止され、その代わり以前より緩い身分制度が導入された(四民平等)。
具体的に行われたのは以下のような政策である。
- 公家や大名を「華族」(貴族)、大名以外の武士を「士族」、農民と町人を「平民」とした。
- ただし下級武士でも明治維新で功績があった者は華族として認められた。
- 華族にはいくつかの特権があった。例えば「貴族院議員になる権利」「子供に自分の爵位を引き継ぐ権利」「子供を学習院に入学させる権利」「国から財産を守られる権利」などがあった。
- しかし実際には裕福な華族がいる一方で、平民と変わらない貧しい生活を送る華族も少なくなかった。
- 逆に士族に認められていた帯刀の特権は廃止された。また明治政府から与えられていた秩禄(かつて藩から貰っていたお金の代わりのようなもの)も途中から貰えなくなったため、(実質的に平民と変わらない)士族の不満が高まり西南戦争が起こった。
- 平民が苗字を名乗ることが認められるようになった。
- 身分に関係なく職業を自由に選択できるようになった。また結婚に関しても制限が無くなった。
太平洋戦争後はGHQによって身分制度は完全に廃止され、天皇家(皇族)以外は皆平等になった。
ちなみに学歴社会を現代の身分制度と捉えることもあるが、「学歴は江戸時代や戦前の身分制度と異なりその人の努力によって上に行くことができる」という理由から努力が報われやすい社会であるとも言える。
更なる実態
実は「士農工商」という言葉は、日本の言葉ではなく元々は中国からの輸入語であり、士農工商の「士」とは武士では無く中国における支配階層「士大夫」を意味している。
同様に「四民平等」の「四民」というのも元々は中国の言葉である。
また、中国の身分は基本的には完全世襲式で固定化されたものであったが、日本は身分ごとに厳しい制約があったり事細かにきめられてはいたものの、身分制度そのものは流動的で緩やかなものであり、上述した中国における身分制度やインドにおけるカーストのように生まれつき身分を固定するようなものではなかった。
現に江戸時代以前から、農民から武士に、武士から商人になっている者もおり、前者は二宮尊徳や伊能忠敬などが、後者には三井高利などが特に有名である。
江戸時代の日本について海外の著名人の評価
「ヨーロッパにあってこの日本にないのは、科学技術だけであって、あとのすべてはヨーロッパより優っているのではないか」
「彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もいない。これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。私は質素と正直の黄金時代を、いずれの国におけるよりも多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる」
タウンゼント・ハリス(アメリカ外交官)