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前史編集

1625年(寛永5年)10月、後陽成天皇の第7皇子好仁親王が創設したが、嗣子が生まれなかったため兄である後水尾天皇の第8皇子良仁親王(後の後西天皇)を養嗣子とした。その後良仁親王の代で花町宮、跡を継いだ幸仁親王の代で有栖川宮と改称されて続いていった。


有栖川宮家の断絶と高松宮家の成立編集

1913年(大正2年)7月5日、有栖川宮家第10代当主威仁親王が薨去した。嫡子であった裁仁王は1908年(明治41年)20歳の若さで既に薨去しており、有栖川宮家の将来の断絶が決定となった。

これに対して大正天皇が自らの教育係であった有栖川宮家の断絶を惜しみ、自らの第3皇子光宮宣仁親王に有栖川宮家の祭祀・財産を継がせる事とし、1923年(大正12年)有栖川宮家最後の一人であった威仁親王妃慰子の薨去1年を経て、正式に2代目となる高松宮家が創設された。


宣仁親王と喜久子妃(徳川慶喜の7男・慶久と威仁親王第2女子・實枝子の第1女子)との間に子は無く、1987年(昭和62年)2月3日に宣仁親王が、2004年(平成16年)12月に喜久子妃が薨去したことにより廃絶となった。


有栖川宮詐欺事件編集

平成時代に発生した皇室詐欺事件。テレビの報道では単に「既に廃絶した宮家を騙った結婚式詐欺に著名人が騙された」と報道されたようなのも多かったのでそう記憶している人も多い。


実際には、詐欺を行った男は「宣仁親王の落胤(隠し子)であり、典範によって高松宮を継承出来ないので有栖川を名乗り祭祀を継承する」として結婚式出席者を騙したのである。

実際に戦前の皇室では、養子継承の禁止以後、臣籍降下する皇族が宮家(華頂宮・小松宮・東伏見宮など)の祭祀を継承する形で宮家と同じ苗字の華族家(侯爵または伯爵)を創設する、という事例がいくつか存在した。

こうした巧妙な設定故に右翼団体の人間すら騙されたというが、実際には男は宣仁親王はおろか皇室と何の関係も無く、それどころか結婚式は全くのでっち上げ(妃とされた女は協力者というだけで夫婦関係にならなかった)で、祝儀費用を騙し取ったことで詐欺事件として立件された。


ちなみに、男は設定の最後の最後で重大なミスを犯している。当時喜久子妃が存命で、高松宮家の祭祀は高松宮家自身によって執り行われていたという事実があったのである。


高輪皇族邸編集

高松宮同妃両殿下の薨去後、その住まいであった高松宮邸は高輪皇族邸として宮内庁の管理下におかれるようになった。

後の令和時代、甥にあたる上皇上皇后両陛下の仮住まいとして使用されることとなり、また今後は赤坂御用地内の赤坂東邸に代わり、このような皇室住居の改築期間中の仮居として汎用的に運用していく方針が決まった。


関連タグ編集

皇族 宮家

高松宮記念(宣仁親王存命時は「高松宮杯」):競馬GⅠレース。

没するまで優勝杯を贈呈していた。

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