歴史
山階宮晃親王
初代晃親王は邦家親王の第一王子として生まれ、その後京都山科の勧修寺を相続した。そこで出家し、済範(さいはん)と称した。元治元年(1864年)徳川慶喜が孝明天皇に還俗を願い、改めて親王宣下し、山階宮の宮号をもらった。宮号は山科に由来。国事御用掛として幕末の政界に活躍、明治維新後に国事や外国事務総督などを務めた。皇族がヨーロッパの王室倣って軍人なる中、文官であることを通した。1898年(明治31年)の2月、83歳で死去した。
山階宮菊麿王
2代当主菊麿王は晃親王の王子だが、一時、梨本宮守脩親王の養子となるが、1885年(明治17年)に山階宮に復帰し、晃親王の跡継ぎとなる。その後海軍に海軍大佐になる。その後、1908年(明治41年)に36歳で死去した。
山階宮武彦王
3代武彦王は菊麿王の王子として生まれ、父の跡を継いで3代当主になり。海軍に入り、海軍少佐になる。海軍航空隊に所属し東京上空を飛んだことから「空の宮様」と知られた。賀陽宮邦憲王の王女、佐紀子女王と結婚したが、1923年(大正12年)、関東大震災によって鎌倉の別荘が倒壊しその中にいた佐紀子妃は懐妊していてその場で死去。佐紀子妃の死後、武彦王は精神に異常をきさし、1932年に(昭和7年)、予備役に編入された。1947年(昭和22年)に皇籍離脱し、山階武彦と名乗った。その後入退院を繰り返し、1987年(昭和62年)に藤沢の病院で死去した。ただし跡継ぎの実子がいないため山階宮の直系は断絶した。武彦王の母は公爵九条道孝の次女九条範子であり、武彦王は昭和天皇の従兄弟である。
分家
山階(侯爵)家
筑波(侯爵)家…初代当主藤麿は靖国神社宮司を勤める。先代当主常治は早稲田大学教授であった。全身緑のコーディネイトでまとめ、朱肉ならぬ緑肉を使い緑のハンコを駆使する名物教授だった。
鹿島(伯爵)家
葛城(伯爵)家