概要
伏見宮貞敬親王の第10王子、守脩親王が創始。この宮号が使われ出したのは1870年(明治3年)からとされる。
系譜
梨本宮守脩親王
貞敬親王の第十王子として生まれ、その後円満院で出家した。その後梶井円融院を相続した。明治になって還俗し、梶井宮を称した。その後梨本宮と改称する。
梨本宮菊麿王
山階宮晃親王の第一王子として生まれ、守脩親王の養子になった(生家の山階宮は晃親王の末弟であった定麿王が継承予定者となる)。その後定麿王が改めて小松宮家の継承者に転じたことから、山階宮に戻り同家を継いだ。
梨本宮守正王
久邇宮朝彦親王の第四王子として生まれ、菊麿王が山階宮に戻って空位となった宮家を相続した。その後侯爵鍋島直大の娘伊都子と結婚した。
守正王は陸軍の軍人で階級は大将のちに元帥。その後皇籍離脱し梨本守正と称した。父や兄弟たちと同じく神宮祭主を務めている。1947年の伏見宮系皇族の一斉皇籍離脱の際、最年長の男性皇族であった。
皇族で唯一A級戦犯として逮捕されたが、後に起訴されることなく釈放されている。後世の歴史研究家によれば「間違って引っ張ったとしか思えない」「GHQによる皇族への恫喝のようなもの」と考えられているが、詳細は不詳なままである。
長女の方子女王は李王家(旧朝鮮王室・大韓帝国皇室)次期当主であった李垠と結婚、李王妃となった。後に李王家当主を継いだ李玖は孫。次女の規子女王は藤原北家日野流の公家華族・広橋家当主の広橋真光と結婚。
守正王の子は以上の二人のみで、男子は生まれなかった。
その後の梨本宮
守正は1951年(昭和26年)に薨去し、祭祀は妃の伊都子が継ぐ。
旧皇室典範において、皇族が養子をとって宮家を継承させることは禁じられていた(断絶した宮家の祭祀を継承する場合は改めて一家を立てることとなっており、皇族のまま引き継いだ例としては有栖川宮→高松宮、臣籍降下の後華族として引き継いだ事例としては華頂宮→華頂侯爵家、東伏見宮→東伏見伯爵家などの例がある)ことから、後継者の男子が産まれなかったことにより同家の宮家としての断絶は確定していた。
とまれ皇籍離脱した身であったことから、伊都子はその後養子をとり、梨本家の祭祀を継承させることとした。長女の家系は旧朝鮮王家の本家を継いだことから宮家の祭祀を継承させるわけには行かず、当初は次女・広橋規子の次男・儀光を養子に取り同家の後継者とした。しかし儀光の継承は失敗し、離縁する結果となってしまったという。
その後は守正の甥(弟・多嘉王次男)の徳彦が伊都子の養子になって梨本家を継ぐ。徳彦は戦前に臣籍降下しており龍田伯爵家を創設していたが、養子縁組にあたっては龍田家に妻子を残したまま単身で養子となっている。龍田家は事実上・徳彦の長男の徳久が継承した。
徳彦は梨本家と縁組して以降独身で子供も持たなかったが、後に皇族縁者では無い男性を養子に迎えており、2007年に死去した。