概要
伏見宮邦家親王の第十二王子、博経親王が創始。宮号は知恩院のある山華頂山が由来。
華頂宮博経親王
伏見宮邦家親王の第十二王子として生まれ、孝明天皇の猶子となり親王宣下をして、知恩院で落飾し、尊秀入道親王と称した。
江戸時代末期、徳川家茂存命中は家茂の猶子ともなった。その後還俗し、華頂宮を創始した。明治維新後にアメリカのアナポリス海軍兵学校に留学した。その後帰国した。帰国後は海軍の少将に任命されたが。26歳で薨去した。
華頂宮博厚親王
博経親王の第一王子として生まれたが、当時の皇室の内規により皇族範囲を明治天皇の直系と四世襲親王家(伏見宮・旧桂宮・有栖川宮・閑院宮)の当主及びその継承者を除き賜性皇族の方針を定めていた。博厚は「将来的に華族となる皇族」として、身位も無かったとされる。
しかし父の博経親王が薨去した時、博厚は僅か1歳であり、それを不憫に思った他の皇族の嘆願もあり、華頂宮を2代として相続、王の身位を賜っている。だがジフテリアに罹患して危篤に陥り、急遽明治天皇の猶子になり、親王宣下を受けた。同日の内に8歳で薨去した。
華頂宮博恭王
伏見宮貞愛親王の第一子・愛賢として生まれる。伏見宮家は明治改元当初の方針でも存続する方針であったが、愛賢は庶子のため後継者とされず(伏見宮家は多くの公家に見られるように嫡庶優劣で継承者を決めており、父の貞愛親王も正室の子であったために庶兄たちを飛ばして伏見宮を継承していた)、同い年の博厚と同様身位は無く、華族になる予定であった。
しかし博厚(王→親王)が夭折したことで伏見宮本家の男児であった愛賢に宮家を継承させることになり、華頂宮を相続した。継承に伴い本名を博恭と改名し、王の身位を賜る。
ところが、弟で貞愛親王の嫡子であった邦芳王が病弱のため廃嫡されたことにより伏見宮に復帰し、同宮家を相続した。海軍のベテラン軍人でもあり、軍令部総長を務めている。その後70歳で薨去した。
華頂宮博忠王
父博恭王が伏見宮に復帰し、その第一王子である博義王が伏見宮の後継として同時に伏見宮籍となったことで、第二王子の博忠王が華頂宮を相続した。相続当時は2歳であった。
その後海軍兵学校を卒業し海軍中尉に昇進したが、大正13年に薨去した。王には王子がいなかったことで華頂宮は断絶した。
その後の華頂宮祭祀継承者
博恭王が伏見宮復籍後に誕生した第三王子・博信王は父や長兄同様伏見宮の籍にあった。
華頂宮の事例が切っ掛けとなって明治以降の皇室は「永世皇族制(臣籍降下を行わず、子々孫々が永代的な皇族となる)」を採っていたが、あまりに皇族の数が増え過ぎるとの懸念から、皇室典範(旧)の制定以後は代を経た傍系皇族の臣籍降下の規定を定めることとなる。まず情願による臣籍降下を定めたが、これは例が少なく、皇族数の抑止に効果が薄かった。
次に更に増補準則を定め、成人した親王(旧法では天皇の直系4世孫(つまり玄孫)まで)と、宮家の継嗣たる王(王となってから4代後まで)を除いては情願が出されない場合、勅旨により臣籍降下を賜ることとなっていた。これにより臣籍降下の事例が増加することとなる(準則には「個別の事情」に応じて対象の皇族が残ることも可能であるとしていたが、当時は宮家の継嗣たる長男まで降下の対象となる事例が発生していなかったことや、皇族の成員が豊富だったこともあり、規定にかかる皇族は全員が臣籍降下している)。
博忠王が薨去した際、「華頂宮」籍に皇族は残っていなかった。当然伏見宮籍にあった弟の博信王においても同様であり、博忠王薨去時には既に上述した典範の増補準則が規定されていたため、博信王も臣籍降下の対象となった。
この時、博信王は兄の華頂宮の祭祀を継承する形で華族となることとなり、「華頂」姓を賜り侯爵となる。特旨をもって特殊な継承を繰り返して維持してきた宮家であったが、既に皇族内で存続させる重要性に欠いており、旧小松宮など臣籍降下した元皇族が華族として祭祀を継承した事例があったことから、規定の例外とはならなかったようである。
博信王改め華頂博信侯爵もまた、父や兄たち同様海軍将校となっている。皇族として20歳となったことで貴族院議員にも列せられたが事実上のお飾りであり、臣籍降下に伴って資格を喪失している(ただし降下後も侯爵であったため、自動的に議席が確保され、25歳になったことで再び貴族院議員となった)。
戦後直後、妻の不倫が発覚、博信自身が浮気相手との情事の場を発見する壮絶な事態となり、後に離婚した。その後は渡米して再婚し、現地で死去している。
博信の死後あるいは渡米以後、華頂家は長男である華頂博道が相続している。次男の博孝は伏見博英伯爵(博忠王・博信侯の末弟)の養子となり、伏見伯爵家を相続した。
華頂博道は自動車販売業を営んだ。3人の男子がおり、博道の長男・華頂尚隆は日本映画製作者連盟の事務局長で、一部メディアに顔出しもしている。自宅は妻の家業である美容院となり、この職業は三男の博行が継いでいる。