華頂宮博厚親王
かちょうのみやひろあつしんのう
明治8年(1875年)に誕生、博経親王の長男として生まれたが、当時の皇室の内規により皇族範囲を明治天皇の直系と四世襲親王家(伏見宮・旧桂宮・有栖川宮・閑院宮)の当主及びその継承者を除き賜性皇族の方針を定めていた。
博厚は「将来的に華族となる皇族」として、身位も無かったとされる。ただし「博経親王の嗣子」として、皇室内で育てることは許容されていた。
しかし父の博経親王が危篤に陥り薨去が迫る中、博厚は僅か1歳であり、それを不憫に思った皇族筆頭である有栖川宮熾仁親王らの嘆願もあり、華頂宮を2代として相続、王の身位を賜っている。
だがジフテリアに罹患して危篤に陥り、明治16年(1883年)2月15日に急遽明治天皇の猶子になり、親王宣下を受けた。同日の内に8歳で薨去した。
博厚親王の母である博経親王妃郁子は盛岡南部家の娘であると共に、和宮親子内親王の替え玉説が一種の陰謀論として浮上したこともある。
他方、父の博経親王は江戸時代には江戸幕府の14代将軍徳川家茂の猶子(相続関係を結ばない義理の親子関係の構築、慶応4年(1868年)親王の複飾(還俗)により家茂との猶子関係は解消)となっていた。
このため和宮が家茂の正室となったこと、博経親王薨去に先立ち一代での臣籍降下を予定していたはずが博厚に宮家を継承させたこと、その仲介役として大きな役割を果たしたのが和宮の元婚約者である有栖川宮熾仁親王であること等が実しやかに結び付けられて語られることがある(郁子の正体は和宮であり、その血筋を皇室に残すため――など)。
ただし、熾仁親王は皇太子(後の大正天皇)誕生まで皇位継承順位が1位であったことなど、皇族の中の筆頭格として存在していた。傍系宮家の存続に関して、熾仁親王の名で以て嘆願されるのは、特別な関係に無くとも当然とも言える。
また博経親王の薨去は前述の通り博厚が極めて幼少(平たく言えばまだ赤ちゃんである)の内に起こったことであり、そうした環境を憐れんだこと、更に米国留学などで皇室と日本に貢献した博経親王への栄典としての永世皇族化が望まれたことなどが理由としても挙げられているため、これだけで和宮との関係性を説明するのは無理があると考えられる。
なお、郁子の替え玉説の有力根拠として「和宮の写真」とされているものが実は郁子の写真である、というのがあるが、実際にはこの写真は柳澤明子(大和郡山藩の最後の藩主柳澤保申の正室で、左大臣一条忠香の次女)であると、写真歴史家の森重和雄氏によって突き止められている。
他に、南部利剛が写真の女性と同じ写真館で写真を撮影していることを突き止めた人がいるものの、当時日本に写真館など数軒も無い事から、単なる偶然と考えられている。従って、上記の話もただの都市伝説の一種に過ぎず、信憑性は薄いと考えるのが妥当であろう(現在の所、和宮の写真は家茂のそれとともに「あった可能性はあるものの現存しない」とされる)。
また、和宮替え玉説には明治天皇すり替え説等の他の陰謀論に繋げて語る者も多いため、取り扱いには注意を要する。