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概要編集

華頂宮博経親王は日本の明治時代の皇族。皇族として初めて渡米した。


伏見宮邦家親王の第十二王子、幼名は隆宮。知恩院の門跡時代(得度以降)は尊秀を名乗る。後に還俗し、宮家の華頂宮を創始。


プロフィール編集

続柄伏見宮邦家親王の第十二王子
身位親王
出生嘉永4年(1851年)3月18日※26日との説あり
死去明治9年(1876年)5月24日
配偶者南部郁子
子女華頂宮博厚親王
父親伏見宮邦家親王
母親堀内信子

経歴編集

嘉永4年(1851年)3月18日(26日との説あり、何れも旧暦)に誕生、翌年10月12日に出家し、有栖川宮織仁親王の末息子・尊超入道親王(同7月7日薨去)の附弟として知恩院の門跡となった。


万延元年(1860年)11月29日に孝明天皇の猶子になり、博経の名を賜り親王宣下される。同時に朝臣家茂(江戸幕府14代将軍徳川家茂)の猶子ともなる。翌月、得度して正式に僧侶となり、尊秀入道親王となる。

慶応4年(1868年)に複飾(還俗)し元の博経親王に戻ると、華頂宮を創始した。華頂宮の名は知恩院の山号である華頂山にちなんだもの。還俗に伴い家茂との猶子関係は解消された。

明治初期の政府において役職を得る。当初議定となるも、同職の廃止に伴い会計事務総督、次いで大学寮創設の仕事に関わる(学習院の前身、但しこの形としての創設は後に頓挫する)。元号代わって明治元年(1868年)9月に元服し、弾正尹


弾正尹を辞した後、親王は日本の富国強兵のため海軍力の強化に強い興味を持ち、明治3年(1870年)にアメリカに留学して海軍兵学校で学ぶ。

留学中は「東隆彦」を名乗った。しかし明治5年に病に罹る(練習艦での訓練中の負傷が原因とも云われる)。病状が良くならず帰国を余儀なくされた。

翌年に南部利剛(元盛岡藩主、南部家40代当主)の娘・郁子と結婚。明治8年(1875年)には第一子・博厚が誕生するも、明治9年(1876年)に薨去、25歳没。


華頂宮は一代のみの宮家とされ、一子・博厚は博経親王の没後は華族に列するとされていたものの、博経親王が危篤に陥ると、僅か一歳にて父親を亡くす子の悲哀や博経親王自身の功績(海軍力強化のため渡米し勉学に励んだ)から華頂宮を博厚に継がせるように有栖川宮熾仁親王らによって嘆願が出され、明治天皇の特旨により華頂宮の存続が決定、博厚は正式に皇族に列し(博厚王)、間もなく博経親王の薨去により華頂宮を継承した。


関連タグ編集

皇族 華頂宮 伏見宮


初代華頂宮第2代華頂宮
華頂宮博経親王華頂宮博厚親王

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