伏見宮貞敬親王
1
ふしみのみやさだゆきしんのう
伏見宮貞敬親王とは江戸時代中期の皇族。伏見宮19代当主。
安永8年(1779年)に後桃園天皇が崩御したとき、後桜町上皇と前関白近衛内前とともに後継候補の一人だった。なお、この崩御について父邦頼親王が天皇を毒殺したとの噂があったが、結局皇位はより近い系統の祐宮(光格天皇)が継承している。
寛政9年(1797年)の8月に親王宣下をし、貞敬と命名。同月に元服。享和2年(1802年)に父の邦頼親王が薨去し伏見宮を相続。文化元年(1804年)に兵部卿に就任。翌年の文化2年(1805年)に二品。
文化8年(1811年)に一条輝子(一条輝良の娘。徳川慶喜の婚約者であった同姓同名の人物(一条忠香の養女、実父は醍醐忠順)とは別)と結婚。天保12年(1841年)正月に一品。同年に薨去。
息子の邦家親王をも凌ぐ35人(16男19女)もの子に恵まれたが、孫(邦家親王の息子)たちが過半数成人したのとは対照的に成人した男子は5人に留まり、また多くの子が19世紀初頭の生まれであるため、幕末を経て明治まで生き残った男子は第一王子・邦家親王と第十王子・覚諄入道親王の二人だけである。
正室・輝子所生の子が一人も生き残らなかったため、邦家親王が跡を継いだ。覚諄入道親王も後に還俗し、梨本宮守脩親王を名乗った。梨本宮は当初一代宮家であったが、度重なる皇室関連の制度変更もあり相続が認められ、邦家親王の孫である守正王が継いでいる。
この他、邦家親王の第一王子・静宮(のちの山階宮晃親王)は当初貞敬親王の第八王子とされていた。邦家親王満13歳時の子(当時はまだ親王宣下も受けていない)であり、当時貞敬親王は色んな意味で現役バリバリである。何故貞敬親王の子と扱われたのかの理由は現代でも詳しく明らかにはなっていないが、お察しください。
関連記事
親記事
兄弟記事
コメント
コメントが未記入です