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旧皇族

きゅうこうぞく

旧皇族は、過去において皇族とされた人たち。日本の場合一般の臣民(臣籍降下)になった人々を指し、一般に言われている旧皇族とは終戦時に臣籍降下した11宮家に対する名称であることが多い。
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日本の場合

 かつては平安時代に多く見られ、臣籍降下した皇族は姓名を賜ったため、「賜姓降下」と言われることもあった。平氏と呼ばれるもの、4つの流れがあるがもっとも有名なものは桓武天皇の子孫、特に武家として名をはせた平家である。また源氏は21の流れがあり、有名となったのは武家として名をはせた清和天皇の子孫、清和源氏公家として名をはせた村上天皇の子孫、村上源氏、変わったところでは白川伯王家を出した花山源氏、仏師となる康尚を輩出した光孝源氏などが存在する。
 この処置は皇室の財政状況などにより行われたが、中には奈良時代塩焼王や平安末期の以仁王のように処罰としての皇籍剥奪による旧皇族も存在した。
 ただし中世以降から明治以前においては基本的に皇位を継承しない皇族は僧侶となったためその時代の間は少ないが鎌倉時代南北朝時代室町時代に見られ江戸時代に正親町天皇の孫が臣籍降下した例は存在する。
 また、女子は皇族以外との婚姻により皇籍を離脱することになる。
 明治時代以降にも臣籍降下はそれまでより盛んにおこなわれており、家を相続しない次男以下を対象として14名が離脱している。なお、臣籍降下ののち、復帰した事例が一例存在するが、その人物は再度臣籍降下した。

戦後の離脱

 近年においては戦後皇籍により離脱した11宮家が著名であり、大東亜戦争終結の時に主として経済的な理由により離脱した。11宮家とは、山階宮家賀陽宮家久邇宮家梨本宮家朝香宮家東久邇宮家北白川宮家竹田宮家伏見宮家閑院宮家、東伏見宮家であり、この際51名が離脱した。
 離脱の理由は諸説存在する主なものは

  • 先述した経済的な理由。戦前は莫大な皇室財産が存在し、それにより皇室を賄っていたが、その財産が国の財源確保のためGHQの後押もあり日本国憲法により国有化されたことでそれまで天皇の予算で行われた宮家の維持が難しくなったと言われる。
  • 有力な皇族で政治家あった東久邇宮稔彦王殿下が「一連の責任を負って身分から離れる」と発言し、皇族軍人であった賀陽宮恒憲王など同調する皇族も存在した。しかし、昭和天皇など引き留める反対派もいたという。
  • 皇室廃絶をもくろんだGHQによる策略。これは旧皇族の子孫、具体的には祖父が皇族であった竹田恒泰氏のみならず小林よしのり西尾幹二両氏を始め支持者多い説であるが、GHQの関与自体は否定できないものの、陰謀論と扱われることも多い。
  • また、当時の政権日本社会党を含む内閣であった、ということも考慮すべき、という意見も存在する。
 なお、戦前の皇室財産はほとんど国有・公有財産に近かったとする意見や、GHQでも現在の断絶危機までは見越していなかったと言う説を呈する声もあり、今でも理由については不明瞭なままである。
 参考までに、一斉離脱が行われる時点で未成年かつ離脱対象でない男子皇族は、皇太子明仁親王・正仁親王・三笠宮家の寬仁親王の三人のみ(何れも当時の肩書)である。後に三笠宮家には更に二親王が誕生し、後に皇太子にも男子が二人誕生したことで、文仁親王(後の秋篠宮)誕生から昭和天皇の次弟高松宮の薨去まで皇位継承権を持つ男子皇族(つまり昭和天皇を除く皇室の男性)は九人いた。諸外国の事例を見ても、規模的に同規模以上の人数が国の公的行事に関わる王室は中東などを除くとそれほど多くない。また1975年までは高松宮以外の全員が60歳未満である。その後九人連続で女子のみが誕生したのが想定外だったと言えるだろう。

戦後離脱した皇族に対する扱い

 なお、現時点では11宮家の皇族復帰は未定である。近年、11宮家の子孫についての調査が宮内庁などで行われており、一部の子孫は性別・名前も含めて判明している。なお、離脱時に当主が薨去し既に断絶が確定していた東伏見宮家の他、2017年までに山階宮・閑院宮両家は既に断絶し、伏見宮・北白川宮両家は当主以外の男子が不在、梨本宮家は二度の皇族系旧華族の養子を経て、ついには皇族と無関係(ただし皇族子孫を自称する)の養子が継承し、賀陽宮家は当主逝去の後その兄弟や甥によって継承、久邇宮家も当主の息子の代で途絶えるとされる。
朝香宮家、東久邇宮家には当主の孫までが存在し、竹田宮家も当主の子がつい最近結婚するなど子孫誕生が現実的とされるが、他の家は断絶の危機にあると言ってよい。
なお、旧皇族の離脱前は旧皇室典範準則により皇位の継承は長男によってのみなされ、次男以下は臣籍降下することを定めていたため、賀陽宮家の継承は厳密には皇族として存続不可能な方式である。
ただし皇族のままでいれば男子を産むという責任によって男子が誕生したとも言えるし、準則は増えすぎた皇族の抑制の面もあったため施行以降その例外とされた皇族はいなかったが、だからと言って準則は実際に断絶の危機ともなれば廃止も可能であった附則に過ぎなかった。いずれも所詮はたら、ればの話である。現に賀陽宮家の現当主は皇太子の同級生として現皇室にも親しく、皇籍復帰が実際に検討されたことがある。
なお、過去において臣籍降下した皇族が再び皇族に帰ったり、ついに皇位を継承した、という事例は存在するが、これらはみな政治的な産物である。

海外における旧皇族

 むろん海外においても皇帝は存在し、その一族として「皇族」が存在したが、これらは自称も含まれるため、日本における「旧皇族」と同一は言えない場合が存在する。彼らは帝位請求者と呼ばれることがある。

中国の場合

 古代中国では王朝の子孫がによって封土を賜ったのを始め、易姓革命で敗れた側が降参したり、勝者が敵残党を懐柔するため、祭祀を絶やさない(子孫を滅ぼせば呪われるという迷信が存在した)ためなど様々な理由があった。
 三国志の時代ではに禅譲した献帝や魏に降伏した劉禅、架空の人物だが後周帝室(の旧主家)の子孫である『水滸伝』の柴進らは貴族に封じられて天寿を全うしており、「旧皇族」に相当する。ただ、魏晋に続く南北朝時代以降は前王朝を完全に絶やすことが主流となり(史実でも柴氏を手厚く保護した宋朝は例外)、中国ではほぼ途絶えてしまった。
 近代になり、清朝の皇族は中華民国でも生き延びることができた。皇室の男子直系は戦後に断絶したものの、他のほとんどの一族は姓を愛新覚羅氏より氏に変え、現在でも存続している。

他のアジア諸国

 朝鮮の場合は李氏朝鮮までは皇帝を名乗ることがなかったのであるが中国と同じく「前王朝を完全に絶やすことが主流」であったため、ほぼ現存していない。なお姓など特定の人々が存在するが、彼らは本来姓であったが、高麗の王朝が滅亡した際姓を改めた、という話が伝わっている。李氏朝鮮にて朝鮮王は大韓帝国皇帝を名乗ったが、韓国併合ののちも王族は残存しており、現在でも皇帝の一族は残存している。最後の皇帝の孫にあたる李家の当主李玖は、2005年に東京の旧邸であった旧グランドプリンスホテル赤坂の別館に滞在中死去した。彼には子供がおらず、彼に次ぐ王族の嫡流は日本に帰化しているため、傍流に王位請求権は移ったと見做される。
 ベトナムにおいては支配者は皇帝を名乗っているが、過去の皇帝の一族の最後はよくわからない点が多いが、暗殺あるいは処刑されたと考えられる人物が多いものの、丁朝の王族は優遇され、子孫を称する家系も存在する。
 最後の王朝とみなされる阮朝の場合、フランスの保護国となり、ベトナム人の反乱により皇帝が流罪になったりしたものの、第二次世界大戦の際皇帝がフランスを裏切り日本に従い、その後飢饉が発生したこともあり、クーデターにより滅亡することとなる。ただし、皇帝も皇帝の一族も処刑されることはなく、一族としては残っている。現在の当主は最後の皇帝保大帝の孫である。
 インドにおいてはムガル帝国が皇帝を名乗ったが、周辺諸国の独立および反乱により力を失い、最後はインドの植民地化をもくろむイギリス東インド会社に対するクーデターに担ぎ出された結果敗北し、イギリスにより一族がビルマに流罪となった。その後20世紀までは子孫は存在したとされるが、その後は不明である。
 イランにおいてはパフラヴィー朝ルーホッラー・ホメイニー師率いる勢力によるクーデターイラン・イスラム革命により皇族がエジプト亡命、のちにアメリカ合衆国に移動している。

欧州の場合

 ロシア帝国においてはロシア革命後、主だった皇族は暗殺されたが、アレクサンドル2世の三男の息子がロマノフ家の後継者となっている。
 オーストリア=ハンガリー帝国においては第一次世界大戦の敗戦の結果退位したハプスブルク家の元皇帝がハンガリーの王位を狙ったためイギリスにより一族ごとポルトガル領マデイラ島に追放される。その後紆余曲折を経るものの、オーストリア帝位請求権を放棄することなどによりオーストリアに入国できるようになったといわれる。ただし、一部の皇族は帝位請求権を放棄しないままドイツなどに滞在するか、あるいは放棄しない代わりに現行の共和国への忠誠を条件に入国している者も存在する。オーストリア側の当主はカール・ハプスブルクだが、ハンガリー副王の子孫がハンガリー側に別に存在する。
 オスマン帝国では、カリフであったオスマン家ムスタファ・ケマルが始動したトルコ革命により廃止された工程をはじめ皇族が追放された。現在、追放は解かれ一部はトルコに住んでいる。
 ドイツ帝国は、第一次世界大戦の敗北により発生したドイツ革命により共和制に移行したが、ヴィルヘルム2世オランダ亡命、子孫がドイツ帝国及びプロイセンの継承権を持つといわれる。現当主はヴィルヘルム2世の玄孫。
 フランス、というよりもナポレオンの後継であるボナパルト家家長はナポレオンの弟の子孫が持つ。ただし、相続問題により親子がその位を争う状況である。フランスには他にブルボン朝の後継を称するスペイン=ブルボン家のうちスペイン王アルフォンソ13世の次男の家系(現スペイン王室は四男の家系である)と、オルレアン家の各当主がフランス王位の請求権を持つことから、フランスの君主位は三つ巴の状態にある。なお、ボナパルト家も先々代でブルボン家の分家の一員と姻戚関係となっており、帝位・王位を請求する全員がフランス国王アンリ4世の子孫である。
 イギリスにおいてはムガル帝国から奪ったインドの皇帝の位を所有していたが、インドの独立の際に返上した。連合王国王位はそのままであるため元皇族とは扱われない。

アメリカ全般

 アメリカ大陸においては北米ではアメリカ皇帝を名乗って外交文書の送付などを行ったノートン1世がただ唯一の例とされる。彼には誇大妄想の気があるとされ、実際に外交関係の礼節交換を行った他国も存在するが、実際にはアメリカの支配権は常に共和制のアメリカ合衆国にあった。彼には家族もいなかったと見られ、他に辞令も見られない。
中南米においてはメキシコにて帝政が2度成立したものの、速やかに廃止されているが、一応皇帝位を請求する人物がいるが、これは第一帝政の皇帝の子孫、かつ第二帝政の皇帝の養子の子孫と思われる人物である( 日本語の資料がないため不詳 )。第二帝政はオーストリア皇帝であるハプスブルク家の出身だが、皇帝に子が産まれぬまま処刑されて断絶した。
ブラジルにおいてはポルトガルの元国王が皇帝となったが、2代目のペドロ2世の時代、軍部によるクーデターにより廃止され、他国へ亡命することとなった。ただしその子孫、具体的にはの子供たちは存在し、現在ではそれが二つに分割され彼らは帰国し皇帝の位を今も請求しているといわれる。

アフリカ

 エチオピアにおいては最も古い説ではおよそ3000年前からソロモン朝の皇帝が支配したとされるが、ハイレ・セラシエ1世が軍部のクーデターにより廃位され、その後暗殺された。なお子供が亡命しており、その子供がエチオピア皇帝家の家長であると認定されている。また、別の皇帝(一度ソロモン朝を引き摺り下ろしたテオドロス朝やザグウェ朝)の子孫が存在する。
 また、中央アフリカ帝国( 中央アフリカ共和国 )は大統領のボカサが皇帝となり、それが認められてるとみなされるらしいが、一代でクーデターにより「皇帝」はフランス亡命、その後フランスの政治に影響を与えたが、それは別の話である。ただしこの件は黒歴史となっているらしく無視されている。

オセアニア

 中世以前、トンガは海上帝国として今よりもずっと広いポリネシア全域を支配していたとみられる。このトンガ帝国が単なる俗称かどうかは意見が分かれるが、現トンガ王室はその正統な後継者である。

「旧王族」

 日本で言う旧皇族と立場上近いものは、現在も君主制である国家における旧王族の方が近いだろう。
 定義は国家によってまちまちであるが、例えばイギリスでは第一次大戦後にドイツ帝国内ハノーファー王国の王族ともされていたカンバーランド公一族ならびにザクセン=コーブルク=ゴータ王国王族とされていたオールバニ公一族が公爵位を剥奪され事実上イギリス王族としては放逐された。ただし王位継承権は現在も有しているとされる。
 他にもカトリックとの婚姻または改宗により王位継承権を失った者などが複数存在する。
 また大陸諸国では、いわゆる身分違いの結婚「貴賤結婚」をすることで王族の地位を失い、爵位を与えられて狭義の王族に含まれなくなった王族がどの国でも一定数存在する。傍系の王族は分家の繰り返しで次第に王族中枢から遠ざかり力を失うため、いわゆる「シンデレラストーリー」のような体験をしなくてもやむなく貴賤結婚に追い込まれる者もいる。

関連項目

皇帝 皇室 皇族 皇別摂家

参照

wikipedia:皇帝王位請求者

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