用語
皇別摂家という用語は歴史学者太田亮が呼んだ用語であり他の歴史学者は使用しなかった。
伏見宮系旧皇族よりも現皇室に近い男系
江戸時代に近衛家や一条家、鷹司家に養子に入った後陽成天皇の実子または東山天皇の実孫とその男系子孫であるために、伏見宮家やそこから分かれた賀陽宮や竹田宮などの伏見宮系旧皇族以上に男系的に後陽成天皇や東山天皇の子孫である現皇室に近い。
相続した人物
鷹司輔平:閑院宮直仁親王(東山天皇の第6皇子)の第4王子、鷹司家を相続。
現在の皇別摂家
近衛信尋流
信尋-尚嗣-基煕-家煕-家久-内前-経熙-基前-忠煕-忠房-篤麿-文麿-文隆
後陽成天皇の第四王子近衛信尋の系統は上の系統で続き明治なって公爵に叙爵された。昭和時代の当主の近衛文麿は昭和に内閣総理大臣に3度就任した。その後日中戦争を終戦させることをできず、第二次世界大戦後GHQによって戦犯指定されその後自殺した。文麿の子である文隆も敗戦後に満州でソ連軍に捕らえられシベリアで拘留され1956年(昭和31年)に死去した。子供がいなかったため文麿の外孫忠輝(文麿の娘温子と細川護貞の次男)が近衛家を相続したことで近衛家は皇別摂家から離れた(細川氏は清和源氏であり、一応、天皇の男系子孫ではある)。
信尋の子孫には他にも文麿の弟秀麿が近衛家の分家(爵位は子爵)を創始した。
他にも忠房の子尭猷が常磐井家の養子になり相続した。忠熙の男子忠起が水谷川家を創始した(その後は篤麿の四男忠麿が相続。その後秀麿の男子忠俊が相続。)ことで今も信尋の男系子孫は現存する。
一条昭良流
後陽成天皇の第九皇子昭良の子孫は上の系統で3代続いたが鷹司家から兼香が養子に入り皇室の子孫から離れた。昭良の次男冬基(清華家の一つ醍醐家の祖)が昭良流の系統となり、冬基-冬熙-経胤-輝久-輝弘-忠順-忠敬-忠重と続き、幕末の当主忠順は明治以降に侯爵に叙爵された。忠順の孫忠重は明治に海軍に入り、階級は中将にまで昇進した。
本家一条家は忠順の三男忠貞が継いだが後に実家に戻り一条家は醍醐輝久-四条隆生-四条隆謌-一条実輝と四条家を通して実輝が養子に入ったが、大炊御門師前の長男一条実孝が実輝の養子になって再び皇室の子孫から離れた。
もっとも一条実輝の実子は佐野家や旧盛岡藩主家南部家に養子となっており、実輝の男系子孫自体は存続している。
鷹司輔平流
鷹司輔平の系統は令和2年(2020年)現在。一番皇室に近い系統で東山天皇の第六皇子で閑院宮を創始した直仁親王の王子で鷹司家の養子になって相続した。輔平の兄典仁親王の王子は師仁親王は皇位を継承して光格天皇となり、その系統を今上天皇まで続いている。
鷹司家の系統は輔平-政煕-政通-輔煕まで続いたが輔煕の子輔政が早世したことで九条尚忠の男子熙通が継いだことで鷹司家は皇別摂家を離れたが輔平の子孫は旧公爵徳大寺家や旧財閥住友家など輔平の系統から他家の養子に入り現在まで続いている家系がある。
皇別摂家出身の著名人物
近衛信尋の男系子孫
江戸時代
明治時代以降
一条昭良の男系子孫
江戸時代
明治時代以降
醍醐忠敬 - 元老院議官。