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概要編集

後陽成天皇の男系子孫で清華家醍醐家当主。爵位は侯爵、貴族院議員、海軍の最終階級は中将。


人物編集

誕生から海軍少尉編集

明治24年(1891年)10月15日に誕生、明治32年(1899年)に父の忠敬が甥の格太郎(忠重から見れば従兄弟)に射殺された。この事件がスキャンダルになり醍醐家は没落。忠重は一条公爵家に引き取られた。明治33年(1900年)に侯爵に襲爵した。明治42年(1909年)に海軍兵学校に入学、入校当時は150名中126位だったが学問や訓練に強く臨み、卒業時の成績は144名中17位だった。海軍少尉の候補生として装甲巡洋艦(吾妻)に乗り実習をする。大正2年(1913年)に戦艦敷島)に乗艦。その後海軍少尉。


中尉から大佐まで編集

大正4年(1915年)に装甲巡洋艦(常盤)に乗艦し、同年に横須賀鎮守府に配属し海軍中尉に昇格し海軍砲術学校の普通科学生・その後海軍水雷学校の普通科学生。同年に満25歳に達し貴族院侯爵議員に就任した。戦艦金剛に乗り大正6年(1917年)に駆逐艦(浦風)に第4潜水艇隊に配属。その後の大正7年(1918年)に海軍大尉そして海軍水雷学校の高等科学生に進級した。大正12年(1923年)に巡洋艦(阿蘇)の分隊長、第57潜水艦の艦長、大正13年(1924年)に海防艦(浅間)の分隊長、同年に海軍少佐。大正14年(1925年)に呂号64潜水艦の艤装員長、3ヶ月後に艦長。戦艦山城の水雷長。そして海軍中佐、水雷学校・砲術学校・潜水学校の教官。昭和7年(1932年)には第19潜水隊司令、昭和9年(1934年)に海軍大佐、軽巡洋艦(夕張)の艦長。


海軍少将・中将・太平洋戦争編集

昭和10年(1935年)軽巡洋艦(那珂)の艦長、同年に軽巡洋艦(球磨)の艦長、海防艦(磐手)の艦長、昭和12年(1937年)に重巡洋艦(高雄)の艦長。海防艦(八雲)の艦長に就任した。その後海軍少将、昭和16年(1941年)に第5潜水戦隊の司令官、同年の12月8日真珠湾攻撃が始まり太平洋戦争が開戦した。昭和17年(1942年)に軍令部出仕・呉の潜水戦隊司令官に就任した。同年に海軍中将に昇格。その後第22特別根拠地隊司令官。


終戦後編集

太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)に第六艦隊司令長官となるが、同年8月15日に終戦。その後旧海軍軍令部・予備役。しかしポンティアナック事件の容疑者として戦犯指名され日本国内で逮捕され巣鴨刑務所に収監、昭和22年(1947年)にインドネシアへ身柄を引き渡され、同年の裁判の結果死刑判決を受けた。その後ポンティアナック監獄へ収容され同年12月6日に刑場で君が代を歌い「天皇陛下万歳」を三唱し12名の銃手によって一斉射撃が行われ刑死した。


死後編集

忠重の軍帽は靖国神社の遊就館の館内に展示されている。


家族編集

系図編集

後陽成天皇一条昭良醍醐冬基冬熙経胤輝久輝弘忠順忠敬醍醐忠重


系譜編集

妻:毛利顕子(公爵毛利元昭の長女)

長女:醍醐清子(南郷茂重夫人)

次女:醍醐允子(松平永芳夫人)

三女:醍醐和子(黒田長久夫人)

長男:醍醐忠宜

次男:醍醐忠久


外部リンク編集

醍醐忠重 - Wikipedia


関連タグ編集

華族 侯爵 醍醐家 海軍

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