ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

目次 [非表示]

概要編集

摂関家一条家の分家(新家)。一条昭良の次男冬基が創始。


歴史編集

江戸時代に昭良の次男冬基は従兄弟霊元天皇から醍醐の姓を賜られ創始した。父昭良は後陽成天皇の第九皇子であり皇室の男系子孫である。以降は冬基・冬熙・兼潔まで続いて3代当主兼潔(その後経胤に改名)は始め本家一条家から兼純を迎えた。その後兼潔に冬香輝久兄弟が誕生した。その後冬香・輝久・輝弘・忠善まで続いたが忠善が2歳で早世したが輝弘が再び家督を継ぎ忠順が誕生した。ことで忠順に家督を継がせた。

明治維新後は忠順が侯爵に叙爵された。ところが忠順の次男忠敬は甥の格太郎に射殺される事件が発生した。家督は再び忠順が継いだ。その後は忠順の孫忠重が家督を継ぎ忠重は海軍に入り階級は中将にまで昇進したが戦後に戦犯指定され昭和22年(1947年)に銃殺刑となった。以降醍醐家は皇室の男系子孫の系統を途絶えず現代も続いている。


歴代当主編集

氏名生年、誕生日続柄
1醍醐冬基慶安元年6月14日(1648年8月2日一条昭良の次男
2醍醐冬熙延宝7年5月4日(1679年6月12日冬基の男子
3醍醐経胤享保2年7月15日(1717年8月21日冬熙の男子
4醍醐兼純延享4年10月16日(1747年11月18日一条兼香の男子
5醍醐冬香宝暦元年11月21日(1752年1月7日経胤の男子
6醍醐輝久宝暦10年6月13日(1760年7月25日経胤の男子
7・9醍醐輝弘寛政3年4月27日(1791年5月29日輝久の男子
8醍醐忠善文政2年(1819年)輝弘の長男
10・13醍醐忠順文政13年3月17日(1830年4月9日輝弘の次男
11醍醐忠告嘉永元年(1848年)忠順の長男
12醍醐忠敬嘉永2年10月4日(1849年11月18日忠順の次男
14醍醐忠重明治24年(1891年)10月15日忠敬の男子
15醍醐忠宜大正15年(1926年)忠重の長男
16醍醐忠久昭和3年(1928年)忠重の次男
17醍醐忠紀昭和33年(1958年)忠久の男子
次代当主醍醐忠明平成5年(1993年)兼香の男子

極官編集

近衛大将

左大臣


外部リンク編集

醍醐家 - Wikipedia


関連項目編集

朝廷 公家 清華家 侯爵 一条家 醍醐忠重 皇別摂家

関連記事

親記事

清華家 せいがけ

子記事

兄弟記事

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました