曖昧さ回避
近衛兵としての近衛
日本において奈良時代後期の765年に朝廷を警護する組織として「近衛府」がおかれた。のち左右近衛府に改組される。トップは近衛大将で、近衛中将、近衛少将以下の部下と兵力が従う。平安時代後期以降には単なる公家の肩書の一つとなり、武力組織としての側面は滝口の武者や北面の武士に奪われていった。
明治以降、第二次世界大戦の終戦まで宮城(現皇居)の警衛のために置かれた近衛師団が存在した。
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家名としての近衛家
藤原摂関家の中でも嫡流にあたる家系が鎌倉時代以降称した家名である。初代は藤原忠通の四男である関白・近衛基実(藤原基実)、兄たちの早世により摂関家嫡流の家名を継いだ。「近衛」という由来は平安京にあった近衛大路に面して邸宅を有していたことから。なお平安時代末期の第76代天皇・近衛天皇も同じ由来。
時に摂関家は保元の乱による内乱状態となっており、基実の叔父にあたる藤原頼長が藤原家宗家の次期当主に内定していたが、基実誕生後兄弟の対立もあり、父忠通は頼長と義絶している。
こうした流れや、基実自身が早世したことで弟の松殿基房(通称を松殿関白)が基実の息子近衛基通を差し置いて摂関家の主となったことで摂関家の分裂が始まり、更に直後の武家政権(平氏政権、鎌倉幕府)樹立による摂関の地位そのものの低落も相まって、宗家と言えども本姓の藤原を名乗らずに通称の近衛の名を事実上の家名として存続していくこととなった。
実際に近衛家を名乗ったのは二代・基通からとも言われている。上位公家の殆どが藤原北家御堂流となっていたこともあり、本姓に代わる家名は各々の区別として鎌倉時代以降定着していき、やがて源氏などその他の嫡流が一旦途絶えそれまでの分家が新たな嫡流となった家系にも定着していった。
以後は藤原氏の嫡流の中の嫡流として、分家の鷹司家や基実の弟九条兼実に始まる九条家、その分家である二条家や一条家と政争を繰り返しながら摂政、関白を輩出した。