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背景

日本で14世紀に起こった「北朝」と「南朝」の分裂は、足利義満の政略によって北朝のみを正統とするようになった。これ以降も南朝の後継者である「後南朝」が室町幕府に抵抗を続けたが、戦国時代に入ると姿を消す。

だが、その後、江戸時代に勤王思想を説く水戸学が発展すると、後醍醐天皇を裏切った足利尊氏を糾弾し、南朝を正統とする考え方が広まる。

幕末期、尊王攘夷を唱える倒幕志士らは水戸学の影響を受け、武家政権を打倒して新たな政治体制を築いた明治天皇は、後醍醐天皇の再来に見立てられた。

こうした事情から、明治時代には、北朝と南朝のどちらが正統かについて論議され、1911年に明治天皇によって南朝を正統とする勅裁が下された。

しかし、そもそも明治天皇並びに大正天皇昭和天皇の系譜は北朝側の持明院統の子孫であるため、その正統性を疑問視する人も存在し、南朝側の大覚寺統の子孫(後南朝)であると自称する一族が現れた。

その中でもっとも注目を浴びた人物こそが熊沢寛道(くまざわ ひろみち)《1889-1966》である。

概要

熊沢寛道は名古屋市で生まれる。

養父である熊沢大然は後亀山天皇(南朝最期の天皇)の末裔であると養子である寛道に言い聞かせ、自身を第116代天皇であるといった文書を1911年から宮内省・文部省・政治家軍人などに送り続けていた。

1920年に大然が病死した後は、寛道も第117代天皇として自身を熊沢天皇であると文書を送り続けた。次第に寛道の係累や熊沢姓を名乗る者が、熊沢家の宗家は自身の家系であるとして3-4人ほどが熊沢天皇を自称するようになっていった。

戦後GHQに文書を送り続け、1946年1月18日の米軍兵士向けの英字紙『星条旗』に報じられたのをきっかけに外国で相次いで報道され、日本でも報じられるようになると、南朝の正統を信じる者たちの間で「南朝奉戴同盟」という組織が作られたりもした。

1951年1月、東京地方裁判所に「昭和天皇の天皇不適格確認訴訟」を起こすが、「天皇は裁判権に服しない」として却下された。

1966年6月11日に膵臓がんで死去。

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