杭州
こうしゅう
隋代以降、江南運河の終着点として経済文化が発達し、「上に天国あり、下に蘇州・杭州あり」(上有天堂、下有蘇杭)とも称えられる。
市中心部の西には世界遺産の西湖(メイン画像)という湖があり、観光客も多い。周囲には雷峰塔、岳廟、銭塘江、そして龍井茶の産地・龍井などがある。
日本語読みでは、「こうしゅう」は広東省の大都市、広州を指すことも有るため、湯桶読みで「くいしゅう」と言い換えることが多い(英語読みだとハンチョウとコワンチョウなので間違わないが)。
新石器時代末期に栄えた良渚文化(前3300年から前2200年ごろ)の遺跡がある頃から暮らしており、春秋時代は越⇒呉⇒楚の管轄、秦代には会稽郡の管轄、南北朝時代になると5南朝梁により一時期設置された臨江郡の管轄となり587年(禎明元年)には陳により銭唐郡が設置。
隋朝の589年(開皇9年)、杭州が設置されたのが名前の始まり。その後余杭郡と改められ、唐代になると再び杭州、余杭郡、そして758年(乾元元年)以降は杭州の名称が清末まで使用された。
隋朝の頃から唐代に建設された運河によって貨物の集散地とし発展。
北宋が国都開封を失って滅亡した後、皇族の趙構が高宗を名乗って南宋を建国し、1129年(建炎3年)に避難先の杭州を国都とし「臨安」あるいは行在(仮首都を意味する)と呼んだ。周辺地域は中国における穀物生産の中心地となり、各地の避難民が流入した巨大都市として全盛期を迎える。後に元朝・モンゴル帝国に征服されるが、その後訪れたマルコ・ポーロが世界最大の都市であると評していることから、なおも繁栄は続いていたようだ。明代には絹織物の中心地となり、周辺も桑畑が主になった。
1914年には中華民国浙江省銭塘道が設置された。1927年に道制が廃止となり杭県を城区・西湖・会堡・湖墅・皋塘・江干の6区を擁する省直轄の杭州市が設置された。