曖昧さ回避
史実の桓魋
春秋時代の宋の人。兄は左師の向巣。弟は孔子の弟子の司馬耕(向子牛)、向頎、向車。
紀元前500年、桓魋は宋の景公に寵愛されていた。景公の弟の公子地の白馬を欲しがり、景公はこれを桓魋に与えた。怒った公子地は武力で白馬を取り返した。景公の弟の公子辰が公子地を陳に亡命させ、公子辰も陳に亡命した。
紀元前492年、孔子が宋を訪れた。大樹の下で弟子に礼を習わせていたところ、桓魋が大樹を引き抜きいて振り回し孔子を殺そうとしたが、孔子は逃げた。(※)
紀元前484年、衛から宋に亡命した大叔疾が桓魋に玉を贈った。景公はこれを欲しがったが、桓魋は献上しなかった。
紀元前482年、兄の向巣が鄭を攻めて敗れ、嵒で包囲された。桓魋はこれを救援したが敗走した。
紀元前481年、景公は桓魋の増長に悩まされ粛清しようとしたが、桓魋は曹の地に逃れて反乱を起こした。景公は向巣に曹を攻めさせたが、向巣は桓魋に寝返った。桓魋は衛に逃れたが、衛では大叔疾から贈られた玉を狙われ、斉に逃れた。司馬耕も領地を返上して斉から呉に逃げ、最後は魯の城門の外で死んだ。
※当時、孔子の一門は呉と密接な関係があり、桓魋の弟・孔子の弟子の司馬耕が何らかの政治工作に関わっていたのではないかという説がある。
「十二国記」の桓魋
cv:松本保典
慶東国の人。
姓名は青辛(せいしん)。元 麦州師左将軍。現在は慶国禁軍左将軍。
年齢は25、6歳で、元麦州候・浩瀚から有能と評されているリーダーシップのある人物。
よほど裕福な家で育ったらしく、家事全般を不得手としている。
実は熊の半獣であり、人の姿のときでも尋常で無い膂力を発揮できる。
隣国の巧国ほどひどくはないが慶国でも半獣に対する差別はひどく、桓魋も劣等感を抱いていたが、才を惜しんだ麦州候・浩瀚に見出され麦州師左将軍に任じられた。
以後、浩瀚のもとで軍を預かるが、慶王・舒覚の「女を殺せ」との命に苦悩する浩瀚に「国のためにならないのなら王を殺すべきだ」と主張するも、意見が入れられることはなかった。
景王・舒覚の崩御後、本来は王位に就くことができない舒覚の妹・舒栄が偽王に立つと浩瀚は城門を閉ざして従わず、正当な王である陽子が舒栄を討つまで籠城は続いた。
しかし、長く城を閉ざしていたことが「謀反の疑いあり」と冢宰・靖共の告発を受けたことにより、麦州候を解任された浩瀚は無実の罪で捕らわれ、流刑に処されることとなった。
このとき、桓魋は流される浩澣を救い出奔、後に圧政を敷く和州候・呀峰と彼を背後で操る冢宰・靖共に反抗する虎嘯の一派と遠甫の弟子たち、祥瓊、大木鈴、景王・陽子らに合流、腐敗した靖共らを追放するに至った。
和州の乱を鎮圧した景王・陽子は「(挨拶を)立礼に簡略化」する初勅を出すとともに「半獣に対する不当な扱いを撤廃する」勅令を出し、冢宰に浩瀚、王の教育係である大師に遠甫、王師を預かる禁軍左将軍に桓魋を任命する人事に着手した。
朝廷が安定を取り戻していくなか、慶王・陽子は「前公主・祥瓊を女史に任じる」許可をもらうため、桓魋を芳国に遣わし、仮朝を預かる月渓に「国のために仮王につくべきだ」「(慶を治める)今の王も国のためにならないなら討つ覚悟がある」と発言、仮王として立つことを決意させている(アニメでは王宮に入ることはなかったが、祥瓊も桓魋に同行、祥瓊は何も知らないまま王宮で暮らしていたことを恥じている)。
アニメでは背は高くともスマートといって差し障りない見た目の美丈夫ながら、筋骨隆々の大男の虎嘯ですら扱いに難儀するほど、異常に太く大きな槍を片手で軽々振るい、「ありゃバケモンか」と評されるほどの膂力を誇る。
挙句の果てには半獣として熊の姿に戻ったときは、数十の馬で曳かれる攻城兵器をたった一人の力押しでひっくり返して破壊してしまった。
最低でも百馬力は超える膂力があるのは間違いない。
一般的な人間が0.3馬力である上、馬は実際のところ1頭で2~3馬力はある(馬が品種改良により馬力の制定当時より強くなっている)ため、文字通りの一騎当千(物理)。