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概要編集

室町時代末期の武士。

室町幕府末期の将軍足利義輝義昭兄弟に仕える。

生没年不詳

生涯編集

中原親能大江広元兄弟を輩出し、代々、[鎌倉幕府]]に重用された中原氏の後裔、室町幕府にも重用され「摂津守」に任じられたため、「摂津氏」を名乗る。


父・摂津元親(後に元造)が、室町幕府12代将軍・足利義晴に仕えたため諱に「晴」を与えられ、「摂津晴直」と名乗り、後に「摂津晴門」を名乗る。

享禄元年(1528年)、従五位下中務大輔に任じられる。


父・元造の養女・春日局(日野晴光室)は13代将軍・足利義輝の乳母を勤めており、義輝は義理の伯父にあたる。

天文19年(1550年)、将軍・足利義晴が死去したことにより父・元造が出家、しかし、その後も元造は幕府の要職を歴任、官途奉行・地方頭人・神宮方頭人を勤め、晴門も父の補佐にあたった。

永禄5年(1562年)に父・元造が亡くなった後も、これらの地位を引き継いでいる。


永禄7年(1564年)、三好三人衆と手を結んでいた政所執事・伊勢貞孝が、将軍・足利義輝の意向により失脚・滅亡すると、義輝は後任の執事に晴門を任命した。


義輝の強硬な人事に不満をもった三好三人衆は、翌永禄8年(1565年)、二条御所を襲い将軍・足利義輝を殺害、晴門の嫡男・糸千代丸もこの事件に巻き込まれて死亡した。


晴門はこの後も官途奉行の職にあったが、永禄9年(1566年)、三好三人衆に擁立された足利義栄が伊勢貞孝の孫・貞為に出仕が許されると、これに不満をもち京の都を離れる。


永禄11年(1568年)2月、足利義栄の将軍宣下出席を拒絶、足利義昭元服の奉行は引き受ける。

同年10月、足利義昭が織田信長に奉じられて上洛するとそれに従い、新将軍・足利義昭のもとで政所執事に任じられる。


元亀2年(1571年)7月、伊勢神宮・禰宜職の人事を神宮方頭人を兼ねていた晴門が勝手に行っていたことが義昭の怒りを買い逼塞、政所執事を罷免される。

翌元亀3年(1572年)、義昭から朝廷への使者を命じられたのが、最後の記録となっている。

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室町時代 室町幕府 足利義輝 足利義昭

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