概要
1440年(永享12)から翌年にかけて下総の結城氏朝が、永享の乱(1438~39)で敗死した鎌倉公方・足利持氏 の遺児を擁し幕府に抗した合戦。結城氏は一族が安房・下野守護となって勢力を伸ばすにつれて、下野・常陸方面への進出を目ざす関東管領上杉氏との対立を深めていたが、永享の乱で上杉憲実が関東の実権を握るに及び、両者の抗争は不可避となった。
1440年、氏朝は持氏の遺児安王丸・春王丸の2子を結城城(茨城県結城市)に迎えて挙兵した。室町幕府は上杉憲実らを氏朝追討に派遣した。小山・宇都宮氏など関東の有力武家も2派に分裂して約1年にわたる籠城 戦が展開された。なお、この結城城攻防戦では武蔵・上野国人の白旗一揆も幕府の軍勢に合流している。41年(嘉吉1)4月16日結城城は落城、氏朝父子は自殺、安王丸、春王丸も捕らえられ京都に送られる途中美濃 で殺された。
永享の乱の総括ともいうべきこの合戦は幕府方の勝利に終わり、上杉氏による関八州支配を現出させたが、戦乱の火種は消えなかった。
京都では終戦後の祝宴で将軍足利義教が暗殺される嘉吉の乱が発生。
東国では1448年、信濃に逃れていた持氏のもう一人の遺児永寿王丸(後の足利成氏)が鎌倉に帰還し、鎌倉公方に就任する。成氏は1454年、関東管領上杉憲忠を暗殺し、享徳の乱が勃発。鎌倉公方は、追討軍を逃れた成氏の古河派と幕府に擁された足利政知の堀越派に分裂。
このような関東諸家の反上杉闘争、およびその内部分裂・対立が繰り返され、東国の社会情勢は混乱が続いた。