概要
鎌倉時代に対馬地頭代となり、弘安年間以降は対馬守護だった少弐氏に代わって対馬を実効支配した。
室町時代に少弐氏の勢力が衰えると、本姓を平氏としたり10代当主・成職が8代将軍・義成(のちの義政)から偏諱を受けるなど主従関係を解消し、1465(寛正6)年までに対馬守護職を与えられ独立した。
戦国時代では室町後期から独占していた日朝貿易で利益を得つつ(耕地が無いため依存せざるを得なかった)勢力を保持し、豊臣秀吉の九州征伐で豊臣側に下ったことで本領を安堵した。
その後の文禄・慶長の役では20代当主・義智が事前外交や出兵に際しての1番隊先鋒として戦うなど和戦両面で活躍した。
関ヶ原の戦いでは西軍側だったが朝鮮との講和(己酉約条)を行い、江戸時代以降は対馬藩主となり朝鮮との貿易を行った。領地は対馬と豊臣政権期に加増された肥前基肄郡(佐賀県基山町および鳥栖市北部)、江戸時代に加増された他の飛び地で3万石相当であるが10万石格の大名として扱われた。
明治維新後に厳原藩知事となり廃藩置県まで続き、華族令施行後に伯爵に叙爵された。