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太政官

だじょうかん

1.古代~中世までの律令制天皇親政の日本政府(朝廷)の大臣官僚地方政府制度機構の名称。( - 2.明治維新時代の1.を再度更新する形で設置した明治天皇親政の日本中央地方政府の大臣官僚制度機構。『明治政府』(1864-1885)
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概要

英:Daijokan.(Emperor bureaucracy)

【1】『日本の朝廷(京都御所他、)』(668~1868)(1200年) 
 古名『オオイマツリゴトノツカサ』、古代日本のそれまでの神代から続く大和大君(オオキミ.後天皇)王国の豪族連合政権を革新をするために当時最先端の文明国だった中華律令帝国の唐帝国(618-907)※1の律令中央政府(朝廷政府)『三省六部※2』の組織を参考に作られた律令政天皇親政日本政府(古代~中世の日本政府)と中央省庁(八省という)、地方政府(国司大宰府など)の組織の総称。

 神代~古代~中世以前までは蘇我氏家(約 ~645年頃まで)が大和王国朝廷要職に居座り(大臣.オオオミ)、『大化の改新(646)※1』以降は、中世~幕末までを藤原氏家(697-1871)が太政官朝廷要職(摂政関白太政大臣右大臣左大臣大納言)に居座った。平安時代(794-1192)の律令制日本国の時代を作った。この時代の天皇は実質上政務を行っており、朝堂院(八省院)に八省の長官(公卿)を閣僚として天皇主催の閣議を行っていた。

 その後武家平氏が革命的に太政大臣となり、盛荘園などで力を蓄えた地方大名などが独立国的な動きを始め戦国時代に突入し、源、足利、織田・豊臣、徳川に代表される武家階級による幕府政治(1192-1867)が政治文化の主流になったため。太政官朝廷の中央政府は、もはや有名無実の存在となったが瓦解を逃れ建前的に存続した※3。

【2】『明治太政官政府(明治政府)』(1868-85)(17年)
 明治維新(1867-1889)※4に維新藩(革命勢力)が最初の維新政府『総裁政府(三職政府)』(1865-1867)に変わり、『王政復古』という事で革命革新で日本型西洋近代帝国国家建設を唱えながらも古代天皇政権の延長線上の刷新という事で新たに『太政官』を日本の明治天皇親政日本中央政府兼中央地方官僚機構として組織したとされる、一応【1】の旧太政官朝廷の延長線上ということにもされている。

 『新』太政官は『旧』太政官の太政大臣・右大臣・左大臣・大納言・参議八省(この場合は旧霞ヶ関省庁)などを置くが維新藩(革命勢力)が中心となったので基本的に近代帝国(立憲君主的帝国の政治)に向かっての使い方となり八省(旧霞ヶ関)などの組織改変はかつてとは異なっている、明治太政大臣三条実美宰相の下、参議職大久保利通(1830-1878)などが独占的権力を発揮して廃藩置県郡県制※6など江戸時代の行政の刷新を断行し。伊藤博文(1841-1904)による大日本帝国憲法(1890-1947)による内閣制度下における天皇帝国を成立させる下地を整えた。大日本帝国政府帝国議会(国会)と霞ヶ関中央官僚体制構築により(1890-1947)、明治太政官日本政府(明治政府)は解消した。

【明治政府機関紙】・・・『太政官日誌』(1868年2月(慶応4)-77年1月(明治10))

太政官(二官八省)の機構図


〈中世~幕末〉
太政官・神祇官(二官)
朝堂院『八省院』・・・平安京の京都御所などで天皇(スメラノオオキミ)主催の閣議を行った。
(公卿)

  • 太政大臣
  • 左大臣(ヒダリノオトド)
  • 右大臣(ミギノオトド)
  • 内大臣
  • 参議
  • 大納言
  • 中納言
  • 少納言

左弁官局(太政官四省)
  • 中務省(ナカツカサショウ)
  • 式部省(シリノツカサ)
  • 地部省(タミノツカサ)
  • 民部省(タミノツカサ)
右弁官局(太政官四省)

〈明治〉
太政官・神祇官(二官)
議制官
  • 太政大臣
  • 左大臣(だいじょうだいじん)
  • 右大臣(うだいじん)
  • 内大臣
  • 参議
  • 大納言
  • 中納言
  • 少納言

八省(旧霞ヶ関)
  • 宮内省(現.宮内庁
  • 内務省・・・(1873-1947)に大久保利通が創設し初代内務長官(内務卿)、国内の行事と八省(旧霞ヶ関)を統括する省庁として作られた。
  • 外務省(1869年に発足し現在も存続する唯一の省。)
  • 大蔵省(現.財務省
  • 民部省(大蔵省に併合)
  • 刑部省(現.法務省
  • 工部省
  • 兵部省(旧.海軍省.陸軍省.現在は自衛隊を管轄する防衛省が相当する。)
(編集中)

【追記】

  • ※1 唐帝国(618-907)・・・隋帝国(518-618)を倒す形で建設された帝政中華帝国。律令帝国としての体制が整ったとされる。どのような資料を見ても唐帝国は『当時最大最強の超大国』であるという形で書かれており、中国国家が事実上の世界最高の超大国だった。唐帝国に少しでも並ぶ中華国家が登場するのは清帝国(1644-1911)の時代まで待たなければならなかった。


  • ※2 三省(さんしょう)六部(りくぶ) 旧中国の神代夏帝国(約2000-1600ごろ)に始まり秦帝国B.C778.221(始皇帝の秦)-206)から古代中国の支配者が用いた律令制を兼ねた皇帝政府(朝廷)官僚機構。日本でたとえると三省が天皇直属の御前会議にあたり、六部が中央省庁(霞ヶ関)にあたる。中国では隋唐帝国の時代に完成をされたとされる。また易姓革命がおき新たな皇帝が帝国を建設しても三省六部は継続され、清帝国(1644-1911)まで存続した。しかし唐帝国以降は律令政治も廃れまくり、明、清の統治の時代には皇帝の力わざの統治に任せざる得なくなっていった。日本の太政官朝廷に律令中央政府が無効化した場合、中国や朝鮮などでは間違いなく革命で倒されていたと思う。

  • ※3 大化の改新・・・646年に起きた曽我氏から藤原氏への大臣ポストのクーデターによる政権交代、日本史において近代国家・幕府以前の文献上の政権交代劇は大化の改新のみであり。2000年近くを『曽我さん(大臣(オオオミ)約700年ぐらいか。)』と『藤原さん(太政大臣1200年)』のみが今日で言う内閣の大臣を独占してきた。これは世界の歴史上においても異様な長期政権と思われる。

  • ※4 人によっては明治の維新を大化の改新(646)以来の大改革とした。

  • ※5 江戸・幕末時代には太政官はおろか平安京に天皇が存在している事も有名無実的になっていたとされる。人によっては『天皇親政』などで盛り上がる人々がいるが、日本史的に見ると天皇親政の政府からいかに逃れるかの対処を幕府とかで盛り立てていったようにも思う。

  • ※6 郡県制・・・始皇帝の秦帝国が律令制改革の一環に始めた政治体制、分類は中央集権制度にあたる。国土を中央政府(三省六部)の下に『郡政府』と『県政府』に分け一つの国(秦帝国)として統治を目的とした。日本の場合は明治維新の郡県制が中国のシステムかは不明だが明治政府が維新日本国家の幕藩体制に代わる中央集権制度として始められた。

【参考文献(イラスト)】
  • 『wikipedia(年数)』
  • 『広辞苑』
  • 『goo辞書』

  • 十六八重表菊(ぶどう)

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