概要
西暦623年頃に唐の皇子である雍王・李守礼の王女として御生誕。チベットの伝承では観音菩薩が御身から放たれた光が唐の皇居にいた姫の胎内に入り、それが元で生まれたとされる。
吐蕃と呼ばれる当時のチベットを治めていたソンツェン・ガムポ王は唐との国交を望んで姫を妻にと望んでいたが、遊牧民である吐谷渾の妨害で失敗していた。唐もまた吐谷渾の脅威を断ち切るために吐蕃と政略結婚を行うことを承諾する。638年に吐蕃軍が吐谷渾を壊滅させたのを目の当たりにした唐は婚姻を承諾し、文成公主に白羽の矢が立つ。
2年後の640年、彼女はチベットへ赴くにあたり、僻地で暮らす寂しさを紛らわすために日頃から崇敬していた釈迦如来像を賜って旅立った。そうした逸話があるため、高貴な人質を兼ねていたとする意見もある。
公主が嫁いだのはソンツェン・ガムポの子供であるグンソングンツェン皇子(当時、彼が事実上のチベット王だったと言う)であり、即位した皇子との間に世継ぎであるマンソンマンツェン(642年)を儲けるが、グンソングンツェン王は643年に崩御。公主はチベットの帝都である[[ラサ
]]に持仏である釈迦如来を祀ったラモチェ寺を建立させ、菩提を弔った。
夫の死から3年後、文成公主は重祚したソンツェン・ガムポと再婚するがガムポ王もまた649年に崩御してしまい、翌年に息子のマンソンマンツェン王が即位した。公主はそれから30年もの間、チベットと唐の友好関係を守り続けるが、愛息のマンソンマンツェンにも先立たれるなど波乱に満ちた余生を過ごした。680年に薨去したと記される。
逸話
- 占いの名人であり、「チベットの大地の下に羅刹女が横たわっており、封じるために十二の寺を建てて祀るのが宜しいでしょう」と献策した。今もラサには公主の提案による名刹が残る。
- グンソングンツェン、ソンツェン・ガムポ両王からは信頼され、寵愛を受けていた逸話は多く、チベット人が赤土を顔に塗る習慣をこの時代に廃したのは公主を気遣ったためと言う。
- 占いだけでなく漢方薬や書物、養蚕業などをチベットに持ち込み、同じく政略結婚で嫁いできたネパールの皇女と共にチベットに文明開化をもたらした。吐蕃政権の強化は唐の制度をアレンジしたものだった。
- 観音様の分身でもある白度母、白ターラー菩薩の化身と言う伝承もあり、現代チベットでも広く崇敬されている。