同治帝
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どうちてい
清朝第十代皇帝 西太后の子供 5歳で即位 19歳で崩御 もっぱら〈西太后〉の言いなりで政治を行った。
同治帝
(どうちてい・ドっッチー・ディ)
生没:1856年04月27日 - 1875年1月12日〈19歳〉
在位:1861年11月11日 - 1875年1月12日〈11年〉
中国清朝の第10代の皇帝で、諱は載淳。廟号は穆宗、在世時の元号を取って同治帝と呼ばれる。
西太后の傀儡皇帝
当時の紫禁城政府の中央政治の全実権は摂政となった実母の西太后が握っており、皇帝であっても西太后の決定に背くことはできず、同治帝は西太后に操られるがまま自発的に理念・政策をうち出したことがなかったとされる。
同治中興
1860年代前半から、ヨーロッパ近代文明の科学技術を導入して国力増強を目指す「洋務運動」が進められ、僅かながら清の国勢が復活したため「同治中興」と呼ばれる事もある。
1864年には道光帝以来続いた太平天国を滅亡させることに成功。
1874年、大日本帝国政府の西郷従道率いる日本軍が台湾を武力占拠する事件が起こるが、翌年の1875年に同治帝は19歳の若さで崩御。
死因は天然痘とも、お忍びで遊郭に出向いた際に罹患した梅毒とも言われる。
台湾出兵への対処は次代の光緒帝が行うことになった。
光緒帝もまた西太后の傀儡皇帝であり、以降の清帝国では西太后を脅かす政敵はついに現れなかった。
このような経緯から、西太后は武周の女帝則天武后と比べられることになる。
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