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概要編集

1782年9月16日生まれ。

清朝の第8代皇帝。諱ははじめは綿寧、1820年10月3日の即位後に即位後に旻寧と改める。廟号は宣宗。

在世時の元号を取って道光帝と呼ばれる。彼の治世は父の嘉慶帝とともに動乱の時代として認知される。


アヘンとの戦い編集

先代・嘉慶代から続くイギリスからのアヘン密輸による中毒の蔓延との流出は深刻だった。

政府が幾ら取り締まりの強化を命じても役人は私服を肥やすばかりで対処が散漫であり、アヘン中毒は紫禁城内の高級官僚・皇族の間にも及ぶ始末であった。

そんな状態であったから、「逆にアヘンの輸入を認めて関税を得たほうが良い」と述べた大臣もいたほどである。アヘンの容認か徹底取り締まりかは意見が分かれたが、道光帝自身は麻薬の中毒性をよく理解しており、徹底的な取り締まりを決意。林則徐を欽差大臣(特定の事項に関して、皇帝から全権を委任された大臣)に任じて取締りを一任、一定の効果を挙げる。

取り締まりを知ったイギリスは、現地(広州)の商人を支援するために東洋艦隊を派遣。林則徐も広州の防備を固めてイギリス軍を迎え撃つ態勢を整えていたが、広州の防御が固いと見たイギリス艦隊は、より北京に近い天津に向かった。間近に艦隊を迎えた政府は狼狽し、慌てて林則徐を解任、イギリスの意を迎えることに必死になった。

後任の琦善はひたすらイギリスに低姿勢で臨み結果大幅に譲歩した南京条約を結ぶ事になった。


太平天国の乱編集

清朝の欧州列強への屈辱的対応や、政治の腐敗による行政の劣化に道光帝は悩まされ続けた。

民衆にも不満は高まり、それが一つの大事件につながった。キリスト教宣教師だった洪秀全らによる「太平天国」の建国である。

洪秀全は〈天王〉を名乗り皇帝に即位、これに対し清も鎮圧に八旗緑営軍を差し向けたが太平天国軍の前に完敗する事態となってしまった。


これにより政府はいよいよ混乱し、屈辱的な対策を打ち出した。皇帝が自ら列強側に救済の直談判をしたのである。これに対しイギリスは停戦の引き換えに清国へのアヘン輸入の全面許可を条件に出した。道光帝は涙を呑んでこれを受け入れ、太平天国への防戦に全国力を使うことができた。

しかし康熙帝時代の軍備とさほど変わらない清の正規軍はもはや使い物にならないことが国内外に知れ渡り、諸外国の侵略をさらに許す結果となった上、アヘンが社会の末端まで浸透し、三分の一の臣民に重度のアヘン中毒者を出す結果となってしまった。


そして道光帝自身は太平天国への対処をしている最中、1850年2月25日に崩御。

結局同治帝時代まで太平天国との争いは継続する。

清は太平天国と欧米諸国といった内外の戦いを続けることになってしまった。


道光帝の肖像画にも残るようにその風貌や顔は痩せ衰えてしまっていて、国家経営の困難さを如実に表していることの比喩にもなった。

後々アヘンが強大な帝国を滅ぼしたということが、中国人民の記憶に焼きついた結果現在の中華人民共和国では薬物については極刑を以て臨んでいる。


関連タグ編集

清朝 愛新覚羅

万暦帝 蒋介石内憂外患を味わった指導者。


(七代皇帝)嘉慶帝道光帝咸豊帝 (九代皇帝)

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