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三蔵法師

さんぞうほうし

仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶(法師)。転じて、訳経僧を指す号。 単に“三蔵”とも呼ぶ。日本では通常、「西遊記」でお馴染みの玄奘三蔵をこう呼ぶ。
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特に、インドや西域から教典をもたらし漢訳した人々を尊称して“訳経三蔵”“聖教三蔵”或いは“三蔵法師”と呼ぶ事が多い。

これまで「三蔵法師」の号で呼ばれた僧侶は複数居るが、通常は「西遊記」で御馴染みの玄奘三蔵を指す。


『西遊記』の玄奘三蔵

俗名は陳江流(ちん こうりゅう)。

生まれる前に賊に父・光蕊(こうずい)を殺され母・温嬌(おんきょう)を奪われて、生まれてすぐにに流される(「江流」の名はこの過去の出来事に因む命名)が、古刹・金山寺の住職に拾われて養育され、後に同寺で受戒、「玄奘」の法名を授かった。修行の末、高僧として大成し、後に別れ別れになった温嬌とも再会を果たす。のち、二人で賊を告発して処刑させ、父の仇に報いる。

ここまでの出来事が『西遊記』にて三蔵が受ける定めであった八十一難のうちの第四難までを占めているのだが、数多ある『西遊記』原本のバージョンによっては、冗長な樵と漁師の語らいに差し替えられている。

その後も修行を続けていたが、太宗皇帝が主催した大規模な仏事「水陸大会」(すいりくたいえ)の席上で観音菩薩の命を受け、天竺へと取経の旅へ遣わされる。その際、太宗皇帝と義兄弟となった。


実は前世で釈迦如来の第二の弟子金蝉子(こんぜんし)であったが、仏法を軽んじた罪によって下界に落とされた。玄奘三蔵が金蝉子の生まれ変わりだと言う事は、金角銀角をはじめとする天上から降ってきた妖魔にはほぼ常識であり、そのを喰えば不老長生が得られ、その肉体と交わって元陽を受けた女怪は上位の神仙になれると信じられている。その為道中ではしばしば妖魔に狙われる。

高僧とは言え凡人である為、孫悟空が倒した妖魔の変化を見抜けず悟空が人間を殺したと思い込んだり、悟空の忠告を聞かずに妖魔の手に落ちる事もしばしば。


女性であると誤解されるが・・・

現在の舞台やドラマでは女性が演じる事が多く、このせいで史実の玄奘を女性だと本気で信じ込んでいる人も多いが「法師」と記載されている通り、本来の性別はである


天竺の霊山を登る途中、凌雲渡なるにて凡人の肉体を捨てて悟空たちと同じ仙人・仏の肉体となる(このことは彼の前世の名前である金蝉子が伏線と言えよう。人間が仙人となるさいに肉体を捨てる「尸解仙」と呼ばれる現象が蝉に例えられる事があるのである)。旃檀功徳仏(せんだんくどくぶつ)という仏に成る記別を釈迦如来より与えられ、直後に一行の他四名ともども正果に達しその通りになった。

なお、「旃檀功徳仏」という名称は悟空の「闘戦勝仏」と同じく、大乗仏典で語られる「三十五懺悔仏」のメンバーに由来する。漢訳仏典側の表記では「檀功徳仏」(サンスクリット語名:Candanaśrī、チャンダナシュリー)だが、一般的な『西遊記』訳本の元になる事が多い世徳堂本、李卓吾本ではなぜか最初の一字がこのように変わっている。


史実上の玄奘三蔵

生没は602~664年、代から代の変革期に生を受けた僧侶。

俗名は陳褘(チンイン)、諡は大遍覚(だいへんがく)

玄奘は僧名であり、また諱でもある。


僧の最高峰“三蔵”の号を得た高僧で、初代三蔵・鳩摩羅什(くまらじゅう/クマラジーヴァ)上人と共に「二聖」、そこに真諦・不空金剛の両大上人を加えた「四大訳経家」の一角に挙げられる。

のちに法相宗の開祖としても崇められることになる。


出家と修行の道

士大夫の家柄の出身者であり、恵まれた環境の中で勉学に励み、儒学の勉学に際して故事に則り自ら起立して学んだことから、幼いころから天才児として評判であった。


10歳のときに父と死別し、浄土寺で暮らしはじめる。そこでまた勉学に励み、11歳のころには「法華経」に「維摩経」という、経典でも難しい部類のものを誦するまでに成長した。

ほどなく得度(僧侶としての免許認定)を認定する度僧が行われると志願するが、年齢が若いとして受験を拒否されてしまう。それに対し、陳褘は試験会場の門前に待ち構え、それを知った当時の大理卿(法務大臣)が玄奘のもとを訪れた。大理卿が「何故僧になりたいか?」と問いただすと、陳褘は「いずれは仏様と人々の縁を取り持ち、また僧になって仏様の遺されたこの仏教をより高めていきたいからです」と返答した。大理卿は「この気骨ある少年を逃すには惜しい」と考え、特例で得度を認め、彼を正式に国家認定の僧侶とし、晴れて陳褘は出家して僧侶となり、「玄奘」と名乗ることになった。


その後は浄土寺で修行に邁進し、「涅槃経」を始めとしたさらに高度な経典や資料の修得していった。

そして21才で具足戒(一人前の僧として戒律を授かる儀式)を受け、荊州の天皇寺に移って修行を続けた。


西域へ

時代は唐代へと移り、玄奘は長年の研鑽から、経典と経疏(キョウショ/訳説本のこと)のあいだに埋めがたい誤差があることに気付き、それを修正したいと考えるになっていった。

そのためには国外へ仏跡を遍歴する旅に出て、インドで経典の原本を獲得するしかないと結論する。しかし建国間もない唐は、国状の不安定を理由にむやみな出国を制限しており、当然ながら玄奘の申し出は受け入れられなかった。

それでも諦めきれない玄奘は、死刑覚悟で役人の目を盗んで国外へ出奔する。

持って出られたのは、僅かばかりの荷物と老いたロバだけだった。


河西回廊(チベットへと向かう険しい山岳路)を抜けて高昌(チベットの小国家)に至り、高昌の王が熱心な仏教徒だったことから歓迎され、王から旅費を工面してもらうことが出来た。

高昌からは、商隊に交じってシルクロードに入り、その中でも“死の道”と恐れられる天山路を進む。

幾度も死の危機に面しながらも、ヒンドゥーク山脈を越えて遂にインドに至った。

しかし、当時のインドはグプタ王朝が壊滅して間もなく、エフタル族の侵攻でまともな経典が残されてはいなかった。それでも諦めずインドを遍歴し、遂に仏教の生きる地でナーランダ大学に辿り着き、賢戒(シーバトーラ)法師から「唯識」の教えを授かり、新王朝・ヴァルダーナの王で熱心な仏教徒であるハルシャ・バルダナに講義を為すなど、破格の待遇を受けるに至った。


その後西域南路で657部もの経典と仏像数点を持ち帰り、帰国。

甘んじて極刑を受けるつもりの玄奘を待っていたのは、盛大な出迎えだった。

太宗皇帝と謁見を許され、その席で直々に労いの辞と国外出奔の罪を罷免を告げられる。

太宗は玄奘の西域に関する見聞を欲し、国政への参画まで求めたが、玄奘自身は持ち帰った経典の解読に専念したいと辞退し、太宗もそれを容認する。代わりに西域の事情を書物にまとめる事業を請け負い、これがのちの『大唐西域記』である。


その後もひたすらに経典の漢訳に尽力し、また次代の高宗皇帝とも詮を交わした。

拠点を弘福寺、のちに勅令から大慈恩寺に移し、経典群の翻訳を進めていく。

自らが持ち帰った経典と仏像の保存のための建造物の建立を申請し、大慈恩寺内に大雁塔を建立する。

そして最も重要とされる『大般若経』の翻訳を終えた100日後、62年の生涯を終えて寂した。


史実と演義の差異

ざっとまとめると、以下の点が違っている。

※史実=玄奘、西遊記=三蔵


  • 玄奘は地方役人の息子で自主的に出家、三蔵は孤児で拾われた寺でそのまま僧となる。
  • 玄奘は主体的だが、三蔵は受動的
  • 玄奘は完璧超人的だが、三蔵はひよわで人間的。

この辺りは、演義の中で張飛諸葛亮ら周囲の人物の活躍を際立たせる為に無力化させられた劉備と似ている。


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