概要
アジア最北端の大都市として知られる。近隣都市圏は撫順の石炭・鞍山の鉄鉱石、やや遠いが黒竜江省大慶市の油田など豊富な資源を生かした一大コンビナートとして工業面を支えた。
しかし、同じ省内の大連に対し柳条湖事件などのせいで反日感情が高かったことで外部の技術が入ってこなかったこと、また重厚長大型産業依存の体質などで、21世紀に入ってからは発展から大いに取り残されてしまうことになり、市況が停滞。情報分野に力を入れ再興に取り組んでおり、東北におけるITの中心地として、東軟(Neusoft)などが拠点を置いている。
対外交流の拠点として
在外公館として在瀋陽日本国総領事館があるが、日本とは前述したような好ましくない関係があるため、どちらかというと交流が活発なのは大連である(大連には領事事務所がある)。
同市はむしろアメリカとの関係が強く在中アメリカ人が多い都市で、米国における重要な交流拠点の一つ。瀋陽側にとっても比較的アメリカと親密な関係を持っている地の利を活かし、盛んにシリコンバレーなどに留学生や研究者を送り込み、エンジニアを育てている(同市が、情報産業に注力しているのはそういう背景がある)。
市内には中国内に5ヶ所しかない(ほかは北京、上海、広州、武漢)アメリカ領事館の一つが置かれている。アメリカがここを重視する理由は軍事的な理由も大きい(ロシアに近いから)。また、フランス、ロシア、北朝鮮、韓国など8つの領事館がある。
友好都市はシカゴ、札幌など寒冷地の大都市のほかトリノ、デュッセルドルフといった自動車産業が盛んな都市が多い。
1926年~1974年まで路面電車が走っていたが廃止された。2013年に新規のトラム路線が開通し、6系統がある。
歴史
歴史は大変古く、7200年前の定住集落の遺跡)もあったことから地域の重要重要拠点になっていた。
唐代は瀋州が置かれ、元代には瀋陽路、明代には瀋陽中衛が設置されていた。
17世紀初、満州族のヌルハチは後金(後清)を建国、瀋陽を都城と定め、1634年には盛京(満州語: ᠮᡠᡴ᠋ᡩᡝ᠋ᠨ)と改称する。
1644年に明朝の滅亡後の全部を支配し、北京に遷都、盛京はその後も副都とされた。
1657年には奉天府が設置。1664年には、奉天府の府治の下に承徳県が新設される。
19世紀後半以降、ロシア帝国の南下政策に対抗すべく、禁地政策が解禁され開発が急速に推進する。
1903年には東清鉄道南満州支線が完成してロシア帝国の勢力下に入り、日露戦争中の1905年、奉天会戦の舞台となる。
1911年に承徳県が廃止され奉天府の直轄としたが1912年、辛亥革命により清朝に替わって
中華民国になった1913年2月に奉天県、4月に承徳県、5月に瀋陽県と改称される。
1923年には奉天市が設置され奉天省の省会とされたが1929年にはそれぞれ瀋陽市、遼寧省と改称する。
その後張作霖・張学良親子を代表とする奉天軍閥の拠点の一方で鉄道駅を中心とする市街地の大半は南満洲鉄道の付属地となっていた。
1931年9月18日、日本は南満州鉄道の一部を爆破し、これを口実に満州事変(九一八事変)を起こした。その後、日本の関東軍に占領され、偽満州国建国。事実上日本の植民地となると共に奉天市政府が成立する。
1945年に日本敗戦後、偽満州国と奉天市政府が崩壊。2年後中華民国政府は再び瀋陽と改称し、直轄市と指定したが、国共内戦の結果1948年11月には中国共産党の勢力圏に入った。
中華人民共和国が成立した1949年には中央直轄市に昇格、1954年に地級市に改編され遼寧省の省都になった。1994年地級市から副省市に昇格して現在に至る。
2004年に、瀋陽故宮ならびに東陵(清太祖ヌルハチの墓廟)、北陵(清太宗ホンタイジの墓廟)などが「北京と瀋陽の明・清王朝皇宮」というかたちでユネスコ世界遺産に追加登録された。
余談
間違っても沈陽などと記述してはいけない。簡体字だと沈阳である。簡体字+繁体字の組み合わせはありえない上に、日本語及び繁体字では「沈」は沈む(衰える、没落する)という意味に通じるため、市民に対する侮辱表現となるからである。
なお、瀋は汁に通じ、細長い川という意味を持ち、簡体字で沈むという意味を持つ字は沉である。