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洞爺丸

とうやまる

戦後初めて建造された青函連絡船用の車載客船。台風の中、船齢10年に満たず沈没するという悲劇的な最期とともに記憶される船である。
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登場の経緯編集

第二次世界大戦前後の青函連絡船は、北海道と本州を結ぶ事実上唯一の交通手段として非常に重要であり、膨大な需要を抱えていた。しかし1945年7月にはアメリカ軍の攻撃により全船舶を喪失。同年8月の終戦後は戦争を生き延びた船をかき集めて輸送力増強に取り組んだが、貨車を積載できる船の不足は深刻であり、進駐軍の戦車揚陸艦(LST)を応急的に改造して投入するありさまであった。

このため進駐軍も1946年7月、ついに青函連絡船向け船舶の新造を許可する。このとき建造された洞爺丸級車載客船の第1号が、洞爺丸であった。


構造編集

第二次世界大戦末期、博釜航路への投入を想定して設計された「H型戦時標準船」をもとに、各所に改良を加えて建造された。建造は三菱重工神戸造船所で、同型船には羊蹄丸摩周丸大雪丸(いずれも初代)がある。

車両積載数を確保しつつ旅客定員を増やすため、車両甲板の線路をH型戦時標準船の4線から2線に減らし、そのスペースを3等船室に充てた。また進駐軍専用列車の寝台車航送を考慮し、車両甲板に折り畳み式のホームや洗面所が設けられた。

また、関釜連絡船金剛丸で採用された船内の交流電化を本格的に採用したことも特筆される。


運用編集

真新しい洞爺丸は1947年11月に運航に入り、青函連絡船の歴史に新たな1ページを開いた。運航開始からわずか1か月後の12月12日には、荒天の中船位が測定不能となり難航するトラブルに見舞われたが、その後は大きな故障もなく活躍していた。1954年8月には昭和天皇のお召し船となるなど、洞爺丸は今後の青函連絡船を支え続けるものと思われた。


台風、そして…編集

1954年9月26日。この日、函館に接近していた台風15号(国際名「マリー」)のため、函館を出航する青函連絡船は次々と欠航となっていた。その状況下でも戦後に建造された洞爺丸は運航可能と判断され、台風が本格的に近づく前に陸奥湾へ入るべく午後3時10分、出航しようとした。

ところが折悪しく停電のため車両積載用の橋が上がらず、出航は取りやめられた。このわずか2分の停電が、悲劇の始まりとなったのである。

午後4時、函館海洋気象台が、「台風15号は青森の西100キロの海上を北東に毎時110キロで進んでいるとみられる」と発表。この予報通りなら台風の目が函館にかかるはずの午後5時ごろ、実際に風は収まりを見せた。これは台風の目ではなく閉塞前線で、台風の位置も実際には予報より100キロも西だった。しかし気象衛星はおろか、気象レーダーも満足に整っていない当時、このことを知るのは不可能であり、誰もが台風は通過したと考えた。午後5時40分、洞爺丸は午後6時30分に出航すると決められた。

午後6時を過ぎると、上記の通り台風が函館に接近して風が再び強くなってきたものの、午後6時39分、洞爺丸は函館港に辛うじて接岸した石狩丸と入れ違いで出発した。この状況でも再欠航しなかったのは、本州と北海道を結ぶ主要交通としての責任感もあっての判断だったであろう。

港を出た洞爺丸は、風速40メートルに達する強風にあおられ、午後7時1分、急遽函館港外に投錨した。このまま船首を風上に向け続けていれば、波による転覆や浸水による沈没は防がれるはずであった。しかしこの時の波の波長は洞爺丸の全長よりわずかに長く、船尾の車両積み込み口から大量の海水が車両甲板へ流れ込んだ。波の周期、波高も浸水量が最大となる条件に近く、約300トンもの海水が車両甲板に滞留した。

もし車両甲板が船の全幅にわたっていれば、この海水が側面に一気に流れ落ち転覆は免れないところだったが、前述のとおり洞爺丸の車両甲板は左右を3等船室に挟まれており、この時点でまだ洞爺丸は比較的安定した状態にあった。しかしこの海水が車両甲板にあった非常口などを伝って機関室に流入し、午後10時5分に左右双方の機関が停止して操船不能の状態に陥った。これにより船首を風上に向けることが不可能になり、洞爺丸は右舷に大きく傾斜した。

この時点でもなお、致命的な事故を避けられる可能性は十分あった。この付近の海底は平坦な砂地であり、触底さえできれば傾斜も回復し安定した状態に戻るはずだったのである。しかし実際に洞爺丸が触底したのは台風による漂砂の上であった。ここに右舷ビルジキールが突き刺さり、これを支点として船体が右舷にますます傾斜していった。

そして午後10時43分、洞爺丸は完全に横転。さらに漂砂の陸側の水深10メートルの海底に転落し、船体の大部分が水没してしまった。

さまざまな偶然の連鎖が、死者1155名を出す大事故へとつながったのである。

またこの日には青函連絡船第十一青函丸北見丸、日高丸(初代)、十勝丸(初代)(いずれも貨物専用船)も沈没しており、日本では戦後最悪の海難事故となった。


その後編集

同型船の羊蹄丸は洞爺丸が沈没した当日青森港の出航を断念したため難を逃れた。翌日函館に到着した羊蹄丸からは沈没して船底を見せる洞爺丸が眺められ、前日には欠航を非難していた乗客も手の平を返して船長の判断を称賛したという。

洞爺丸は引き揚げられたものの損傷が激しく、復旧されることなく解体となった。代替として(初代)十和田丸が建造されている。

またこの事故を教訓に、青函連絡船の船尾車両積み込み口には水密扉が設けられ、機関室にも容易に海水が浸入しないような改良が施された。さらに動力も人力での投炭を要する石炭ボイラーからディーゼルエンジンに変わり、浸水による機関停止が起こりにくいようにされた。この結果、以降青函連絡船では重大な事故は発生していない。

一方でこの事故を契機に本州と北海道を鉄道で結ぶ計画が本格的に持ち上がり、青函トンネルの建設へとつながっていくことになる。


余談だが昭和天皇もこの事故を受けて心痛な思いを寄せる形で和歌を詠まれた。また当時皇太子殿下だった上皇陛下皇族もこの出来事を忘れてはいない。


※関連する場所など

洞爺丸が沈没した七重浜には、この日沈んだ計5隻の連絡船の乗員乗客を追悼する慰霊碑が建立された。

青森港の青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸内にある青函連絡船記念館には、登場時の洞爺丸の模型をはじめとする洞爺丸関連の展示物がある。


関連タグ編集

うしおととら:本船に襲いかかった悲劇をモチーフとした「鎮魂海峡」というエピソードが存在

飢餓海峡:この沈没事故が題材となって書かれた水上勉作の社会派長編推理小説

虚無への供物:やはりこの事故がキッカケとなった、日本三大奇書のひとつに数えられるアンチミステリ長編小説。作者は中井英夫

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