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概要編集

渡島丸型の5番船である。


建造は、山口県下関市三菱重工下関造船所。

1977年 竣工・就役。


船体は外舷下部と煙突を赤色、外舷上部をうすい桜色、煙突鉢巻を白、後部煙突兼マストはうすい桜色で塗装された。

就役後は、他の同型船5隻と共に青函航路で鉄道車両を輸送する任に就いた。


客載車両渡船化編集

渡島丸型ではもともと、消音器室前後に広大なスペースがあり、そこに5トンコンテナを50個積載する計画があったため、この重量(コンテナも含め約300トン)に配置的にも重量的にも耐えられるよう設計されていた。しかしこの想定重量では通常は定員500名程度が限度とされていたが、船楼甲板上に前部煙突直下から船尾係船作業場直前に至る、総2階建甲板室を、薄鋼板を多用することで、重量を約240トンに抑え、旅客定員650名と乗用車20台の積載を達成した。しかしグリーン船室や旅客用食堂のない簡素な造りだった。


檜山丸は1982年7月5日、函館ドックへ入場、9月22日に改造竣工し、10月1日函館2岸9時45分発、青森1岸13時35分着の乗用車航送もする貨物便154便から再就航したが、一般旅客扱いの初便は10月2日青森1岸0時10分発、函館2岸4時00分着の11便であった。そして松前丸は11月12日に本当にひっそりと引退した。

終航後編集

1988年8月に「財団法人少年の船協会」へ2億8千万円で売却され、同協会の20周年事業として和歌山県三井造船由良工場で旅客用浴室・イベントホール、車両甲板後部への旅客用食堂設置など船内を改造、エンジンも重油使用に改造の上、1989年3月23日に青少年研修船「21世紀号」として再就航し3月27日から4月4日まで東京晴海 - 釜山間の航海より就航し、船体前方3分の2は第二期計画用の予備スペースとして改装しなかった。その後予想以上に運航経費がかさみ1992年係船され、2000年にシンガポールのPrima Bridge Island Pte.の保有船となりカーフェリー「RISING STAR III」となった。さらにインドネシアのフェリー運航会社PT Prima Vistaに売却され、「Mandiri Nusantara」に改称されたが、2009年5月31日、スラバヤのタンジュン・ペラ港から東カリマンタンバリクパパンへの航行中、カラミアン島沖で車両甲板から出火し、炎上ののち全焼した。


その後解体されたという情報はあるものの、いつ、どこで解体されたか不明なままである。


同型船編集


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青函連絡船

桧山丸-表記ゆれ

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