虚無への供物
きょむへのくもつ
“虚無”へ捧ぐる供物にと美酒すこし 海に流しぬいとすこしを
――ポール・ヴァレリー
1955年「突然に全編の構想浮かぶ」として書き始められ、最初は会員制ゲイ同人雑誌〈アドニス〉に4回連載されるも中絶。その後途中の第二章分までを62年の江戸川乱歩賞に応募するも、次点にとどまる。
最終的に全編完成し単行本になったのは64年。この頃既に病気を患っており翌65年に死去した江戸川乱歩に遂に完成作を読んでもらえなかったことを、作者の中井は後年ひどく悔やんでいた。
今日では夢野久作の『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』と共に日本三大奇書のひとつに数えられるが、舞台設定がまだしも(他の2作に比べて)現実的で、一番時代が新しい作品だということもあってか「三大奇書の入門書」「もっとも低難易度」という声も多い‥‥実際どうなの? と気になる未読の方は、まず一度実際に手に取られて確かめてみられたし(但し自己責任で)。
1954年(昭和29年)冬、代々変死者の多い呪われた一族で、この秋にも洞爺丸沈没事故で当主達四人が亡くなったばかりの氷沼家を舞台にまた近く起るであろう『ザ・ヒヌマ・マーダー・ケース(氷沼家殺人事件)』にすっかり夢中になった探偵狂の奈々村久生は、幼馴染の男友達光田亜利夫と共にゲイバーに行き、その常連仲間の氷沼藍司(長男蒼司の従弟)と会う。久生は亜利夫を強引にワトスン役に指名し、尻込みする彼を氷沼家へと送り込んでその内情を探らせようとする。
そんな中、蒼司の弟である紅司が閉ざされた風呂場内で死体で見つかる。背中に奇妙な十字架型の鞭痕らしきものが見つかるなど不審な点もあったが、死因は病死だと断定。しかしこれに納得できない久生や、現場に居合わせた後見人役の藤木田老人はこれを密室殺人事件だとして、亜利夫と藍司も加わって各々の自説推理を披露し合う。
ヴァン・ダインの小説『カナリア殺人事件』に倣って遊戯ゲームの進め方で事件関係者の心理分析を、と始まった徹夜麻雀の最中、今度は蒼司の叔父にあたる橙二郎がガス中毒で死亡。更に蒼司達の大叔母も老人ホーム火災で死ぬなど氷沼家親族の不慮死がまだまだ相次ぎ、紅司の日記の中の謎の登場人物鴻巣玄次の存在が浮上するなど、久生ら素人探偵達の推理はますます混乱混迷の度を増していく。そんな中、これらの事件(?)をあらかじめ予言(??)していた久生のフィアンセ・牟礼田俊夫がいよいよパリから帰朝し‥‥。
さて、これら『ザ・ヒヌマ・マーダー・ケース』の真相とは? そして真犯人は一体誰なのか‥‥?
奈々村久生(ななむら・ひさお)
「殺人の起る前に犯人を見つけるのがあたしの流儀よ」「あたしぐらいに良心的な探偵は、とても殺人まで待ってられないの」
本作のヒロイン(あるいはヒドイン?)にして素人探偵その1。ラジオライターを本職とする、売り出す気のないシャンソン歌手。学習院出身のお嬢様育ちだが、まだ起きてもいない事件を一人勝手に捜査・推理し始める電波系探偵オタク(だと見られても仕方ない)。愛称は「奈々」あるいは「ミス・ホームズ」。若年お転婆娘のような言動を発揮しまくるが、もう立派なアラサー。
光田亜利夫(みつだ・ありお)
「事件もないのに探偵だけがしゃしゃり出るなんて話、きいたこともないよ」
素人探偵その2(久生から見ればワトスン役)。本職はサラリーマンで、久生とは単なる幼馴染関係(こちらの方が年下)。性格が久生ほどぶっ飛んではいないため、必然的にその振り回され役に。「全くの純タチでもなければ格別ホモっ気があるわけでもない中途半端な」ゲイバーの常連。愛称は「アリョーシャ」。
牟礼田俊夫(むれた・としお)
『近いうち氷沼家には、必ず死神がさまよい出すだろう』
現在はパリ在住の久生のフィアンセ。氷沼家とは遠い親戚関係で、蒼司とも知己の仲。31~2歳の長身イケメンで、頭脳も明晰。婚約者で探偵狂の久生にあらかじめ上記の意味深な手紙をわざわざ送りつけ、明智小五郎よろしく話の途中から真打探偵の如く颯爽と登場するが‥‥。
氷沼蒼司(ひぬま・そうじ)
氷沼家の長男で、洞爺丸事故で両親達が亡くなった現在は本家当主。亜利夫の学生時代の一年後輩。数え27歳。数学専攻のエリート大学院生だったが、現在はプータロー。
氷沼紅司(ひぬま・こうじ)
蒼司の年子(1つ違い)の弟。エドガー・アラン・ポーを愛好する文学青年で、『凶鳥の黒影(まがとりのかげ)』なる大長編探偵小説を構想中(まだ一行も書いてはいない)。心臓と耳が悪い。第一の事件の被害者。
氷沼藍司(ひぬま・あいじ)
蒼司の従弟で大学受験生。やはり洞爺丸事故で両親が亡くなったため蒼司らと同居中。ルナちゃんという恋人がいるがゲイバーの常連でもあり、亜利夫達とはそこで知り合う。素人探偵その3。愛称は「アイちゃん」。
氷沼紫司郎(ひぬま・しじろう)
蒼司、紅司兄弟の父で氷沼家先代当主。素人植物学者。洞爺丸事故で妻ともども死亡。
氷沼菫三郎(ひぬま・きんざぶろう)
紫司郎の弟で藍司の父。やはり洞爺丸事故で妻ともども死亡。
氷沼橙二郎(ひぬま・とうじろう)
紫司郎の弟で、蒼司の叔父にあたる漢方医。自宅病院火事が理由で一時的に同居中。紅司との関係が特に険悪で、第一事件発生時は挙動不審 → 第二の事件の被害者。
藤木田誠(ふじきだ・まこと)
氷沼家の家老格にあたる、60歳過ぎの巨漢銀髪老人。現在は新潟在住だが過去の外国生活が長く、一人称は「ミイ」。 久生同様、探偵趣味が無駄に濃厚な素人探偵その4。
八田晧吉(はった・こうきち)
氷沼家出入りの家屋ブローカー。42歳。大阪出身で、怪しげな関西弁で読者を惑わせる。
鴻巣玄次(こうのす・げんじ)
死んだ紅司の日記に登場する謎の電気工。存在が疑われていた、牟礼田に至っては「この世にいない」とまで断言していたが、その舌の根の乾かぬうちに突然出現し‥‥。
おキミちゃん
ゲイバーの踊り子。ただのモブキャラ、かと思いきや‥‥?
月原伸子(つきはら・のぶこ)
愛称「ルナちゃん」。藍司の高校同級生で恋人。この作品では数少ない女性登場人物のひとりだが、こちらは問答無用のモブ。
洞爺丸事故や老人ホーム火災事故など「無意味な大量殺人を犯す現代社会に対する告発」がこの作品のメインテーマとされている。また古今東西数多くのミステリ小説を長らく熱烈に愛好してきた作者らしく、それら過去の名作の知識、要素の織り込みとアンチテーゼ、という側面も無視できない。江戸川乱歩賞選考時、乱歩がこの(実は途中までの)作品を「冗談(で書かれた)小説」と評したのは有名な話。
間違いなく『黒死館殺人事件』などの影響を受けたと思われるペダンチズム(衒学趣味)や、中井の特色でもある作品当時の時事風俗懐古趣味も手伝って、それら難解でメタな要素がこの作品を三大奇書の一書たらしめている。中井自身は『小栗虫太郎集』(創元推理文庫)の解説の中で「確固とした現実を透かして非現実が見え出すという点が肝要」だと、自作について語っている。
江戸川乱歩賞最終選考の際、この作品の賛否が選考委員5名(乱歩、作家木々高太郎と大下宇陀児、評論家荒正人と長沼弘毅)の間で真っ二つに分かれ、第一席に推した荒、受賞作はこれに決めたと事前に洩らしてまでいた乱歩ら高評価組と、低点数にとどまった木々&大下、未読で採点棄権した長沼ら低評価組との好みの差が大きかったことが受賞を逸した大きな理由、だと言われた。
中井の友人でもあった三島由紀夫が「(読むのに)2晩まるまる潰された」とボヤキながら熱い論評を語ってくれた、と作者本人があとがきで振り返っている。作中にチラリと登場する“若手舞踊家の藤間百合夫”という人物の元ネタは、勿論三島である。