グレーテは栄光に輝きて殺さるべし。
オットカールは吊されて殺さるべし。
ガリバルダは逆さになりて殺さるべし。
オリガは眼を覆われて殺さるべし。
旗太郎は宙に浮びて殺さるべし。
易介は挟まれて殺さるべし。
概要
1934年(昭和9年)4月~12月号まで探偵小説雑誌〈新青年〉に連載、翌35年単行本初刊行。
今日では夢野久作の『ドグラ・マグラ』、中井英夫(塔晶夫)の『虚無への供物』と並んでいわゆる三大奇書のひとつとされているが、他の二作がどちらも約10年もの長い年月をかけてじっくり推敲・完成された著者渾身の一作であるのに対し、これのみ前述したように月刊雑誌に普通に?連載された、しかも商業誌デビュー二年目の新進作家による作品である。
あと蛇足ながら、この三人のうち小栗だけは大学に通った経験がない(夢野は慶応義塾の在籍歴があり、中井は東大中退だが、小栗は旧制京華中が最終学歴)。「文学に学歴など関係ない!」ということか。
小栗最大の特色であり悪癖ともいえる読者を完全に置いてけぼりにする凄まじい難解さを誇り、最後まで読み通しただけで御立派、でも振り返ってみて「どういう話だったのか内容が全然理解できていない」のも当たり前なシロモノ。‥‥何も今の我々だけでなく、当時の作家仲間や書評家達も「到底文意を捕捉できない」「何度読み返しても苦労させられる」「この作品を褒める人は多いが、通読している人は少ない」などとあれこれコボしているくらいなので、何回中途で挫折して投げ出しても全然恥ではない。頑張ろう。
あらすじ紹介も兼ねた冒頭部引用
(前略)四百年の昔から纏綿としていて、臼杵耶蘇会神学林以来の神聖家族と云われる降矢木の館に、突如真黒い風みたいな毒殺者の彷徨が始まったからであった。その、通称黒死館と呼ばれる降矢木の館には、いつか必ずこういう不思議な恐怖が起らずにはいまいと噂されていた。勿論そういう臆測を生むについては、ボスフォラス以東にただ一つしかないと云われる降矢木家の建物が、明らかに重大な理由の一つとなっているのだった。 (中略) 事実、建設以来三度にわたって、怪奇な死の連鎖を思わせる動機不明の変死事件があり、それに加えて、当主旗太郎以外の家族の中に、門外不出の弦楽四重奏団を形成している四人の異国人がいて、その人達が、揺籃の頃から四十年もの永い間、館から外へは一歩も出ずにいると云ったら……、そういう伝え聞きの尾に鰭が附いて、それが黒死館の本体の前で、鉛色をした蒸気の壁のように立ちはだかってしまうのだった。まったく、人も建物も腐朽しきっていて、それが大きな癌のような形で覗かれたのかもしれない。それであるからして、そういった史学上珍重すべき家系を、遺伝学の見地から見たとすれば、あるいは奇妙な形をした蕈のように見えもするだろうし、また、故人降矢木算哲博士の神秘的な性格から推して、現在の異様な家族関係を考えると、今度は不気味な廃寺のようにも思われてくるのだった。勿論それ等のどの一つも、臆測が生んだ幻視にすぎないのであろうが、その中にただ一つだけ、今にも秘密の調和を破るものがありそうな、妙に不安定な空気のあることだけは確かだった。その悪疫のような空気は、明治三十五年に第二の変死事件が起った折から萌しはじめたもので、それが、十月ほど前に算哲博士が奇怪な自殺を遂げてからというものは――後継者旗太郎が十七の年少なのと、また一つには支柱を失ったという観念も手伝ったのであろう――いっそう大きな亀裂になったかのように思われてきた。 (中略) そして、その間に鬱積していったものが、突如凄じく吹きしく嵐と化して、聖家族の一人一人に血行を停めてゆこうとした。しかも、その事件には驚くべき深さと神秘とがあって、法水麟太郎はそれがために、狡智きわまる犯人以外にも、すでに生存の世界から去っている人々とも闘わねばならなかったのである。
‥‥こんな感じの(あるいはそれ以上に無茶苦茶な)文章が延々何百ページと続きます。この冒頭部だけでウンザリした方は入館をご遠慮願った方が賢明かと存じます。
主要登場人物
法水麟太郎(のりみず・りんたろう)
「終幕の緞帳を上げて呉れ給え、恐らく今度の幕が、僕の戴冠式になるだろうからね」
本作の探偵。前捜査局長で現刑事弁護士、というのが一応の肩書だが、それっぽい活動はほとんどやっていない。現役局長時代は一体どんな捜査をやっていたんだろうコイツ‥‥と勘繰りたくなるが、残念なことにその当時のエピソードも一切出てこない(後のシリーズ作品では自らしれっと「私立探偵」と称するようになっている)。
やたら難しい犯罪学・宗教学・歴史学・心理学・科学・文学・医学・薬学・建築学・美術学等の知識を捜査及びストーリー上意味のあるなし、そして真偽の程に関係なく次から次へと口にしまくり、事件解決よりもそれらの蘊蓄をひけらかす方が主目的なんじゃねーのかこのキ○○イ野郎、と率直な疑念・不満を持たれても弁護のしようがない。実際のところ捜査開始後も次々と起きる殺人をちっとも止められないばかりか、却って‥‥。
支倉(はぜくら)
「なあに、捨てて置き給え。自分の空想に引っ張り廻されているんだから」
検事。相棒のワトスン役‥‥というよりは大ボケ法水に対するツッコミの相方。始終暴走しまくる法水にしょっちゅう嫌味・皮肉・苦言を呈するも、たまにボケに乗っかって脱線逸脱することもあるし、「素敵だ法水君」などと稀にデレ発言すらカマす。
熊城卓吉(くましろ・たくきち)
「サア、そろそろ、天国の蓮台から降りて貰おうか」
現捜査局長。ホームズでいうところのレストレード警部役。脂切った短躯(『後光殺人事件』より)。三人組の中では一番普通人に近いが、法水の無茶苦茶な衒学をそれなりに理解して散々ボヤキながらもくっついていっているあたり、「同じ穴の狢」と後ろ指さされても仕方なし。
間違いなく事件後「あいつを出馬させるんじゃなかった‥‥」と悔やんだであろう人物。
乙骨耕安(おとぼね・こうあん)
警視庁鑑識医師。50を余程越えた、ヒョロリ痩せこけて蟷螂のような顔をした老人。法水とも充分熟知の仲。
出番は少ないが、上記二名よりよっぽど法水の同類。
降矢木算哲(ふりやぎ・さんてつ)
旧名鯉吉(こいきち)。医学博士。黒死館を建てた張本人(だが本人は一度も館へ住んだことがない)。事件当時既に故人。自殺が死因と思われていたが、実は‥‥。
いわゆる「だいたいこいつのせい」役。
テレーズ・シニョレ
算哲がヨーロッパで結婚した妻。フランス人。黒死館は元々彼女のために建てられたが、来日途中で病死。
今はその記憶像が自動人形となって館内に存在。これがまたややこしい要素に‥‥。
クロード・ディグスビイ
黒死館を設計・建設したウェールズ人建築技師。帰国途中に自殺。
算哲及びテレーズとは三角関係だった。で、その影もまたこの事件に‥‥。
降矢木旗太郎(ふりやぎ・はたたろう)
算哲の愛妾の一子で現黒死館当主。17歳。だが中身はおっそろしく老成している。
法水に「日本中で一番美しい青年を見たような気がした」と思わせた美少年だが、女性読者にとっては大変残念なことに作中の扱いは非常に悪く、存在感が薄い。何故ならば‥‥。
グレーテ・ダンネベルグ
ガリバルダ・セレナ
オリガ・クリヴォフ
オットカール・レヴェズ
算哲によって幼少期に日本へ連れてこられ、以来40年の永い間黒死館内から一歩も外に出れずに住み続けている、門外不出の弦楽四重奏団員達(レヴェズのみ男)。
全員が元々欧州各国の名門家の出生、だと思われていたが、これも実は‥‥。
押鐘津多子(おしかね・つたこ)
算哲の姪で女優。一時期黒死館の主だったことがある。作中危険な目に遭うが生き残る(死を黙示されていなかったから)。
夫の押鐘童吉(どうきち)は医学博士で、算哲の遺言状管理者。
紙谷伸子(かみたに・のぶこ)
算哲の秘書。年齢23、4歳がらみ、丸顔で「大して美人と云う程ではないが素晴らしく魅力的」な婦人。
本作のヒロイン(他に若い女性は一人も出てこないから)。そのためか(?)法水の同情と庇護を一身に集める。現当主の旗太郎よりよっぽど作中出番が多い重要人物扱いだが、それもその筈で‥‥。
川那部易介(かわなべ・えきすけ)
黒死館の給仕長。44歳。雇人だが、算哲の手許でずうっと育てられた「殆ど家族の一員」。
殺人黙示にも名を連ねており、生きた姿では作中に登場しない。
久我鎮子(くが・しずこ)
図書係。黒死館に来て7年目、年齢50を過ぎて2つ3つの典雅な風貌を備えた和装老婦人。法水に負けず劣らずの衒学口撃を炸裂させ、この作品を読みにくくしたA級戦犯のひとり。
田郷真斎(たごう・しんさい)
黒死館の執事で史学者。最早70歳になんなんとする老人。下半身不随で、ゴム輪の手動四輪車に乗って音もなく移動する。ほぼどつかれ役(?)。
千々石清左衛門直員(ちぢわ・せいざえもん・なおかず)
千々石ミゲル、の方が通りがいい史実の天正遣欧使節団のひとり。このミゲルが欧州で産ませた不義の子が降矢木家の祖で、その13代目が算哲。‥‥勿論小栗の創作、つまりフィクション設定である。
(本当は「直員=ミゲルの父」。小栗の勘違いか?)
小城魚太郎(こしろ・うおたろう)
最近現われたという変り種の探偵小説家。本人は作中に登場しないが、法水の蘊蓄のひとつとしてそのトンデモ著書の内容が引用される。元ネタが誰であるか、の説明は不要だろう。
余談
アメリカのミステリー小説、S・S・ヴァン・ダイン作『グリーン家殺人事件』がこの作品の元ネタ。何らかの理由で屋敷を離れられない一族、捜査にあたる探偵・検事・警察官の三人組、事件に関係さえもありそうにない衒学・蘊蓄を次々とたれまくる困ったメイ探偵‥‥など、多くの部分が踏襲されている。ただしその中身のヒネ曲がり混沌具合とブッ飛び狂乱迷走っぷりは、こちら『黒死館』の方が何倍も何十倍も酷い(誉め言葉)。
ただし小栗自身、作品の主題はゲーテの『ファウスト』、着想を「楽聖モーツァルト埋葬の情景」から得た、としている。
このテの名(=迷?)作にありがちな要素として犯人名のネタバレがあちこちに流布しているので、(嫌な人は)注意が必要。澁澤龍彦などは自ら希望して書いた同書の解説(元は69年桃源社版のそれで、現在は河出文庫版で読める)の中で「ここで私が犯人名をすっぱ抜いたとしても、小説自体の興味が減ずることはまず有り得ない」として、「犯人は○○○○である」とハッキリ断言してしまっている程である。
創元推理文庫『小栗虫太郎集』版では「駄目だこれ‥‥先に次の『オフェリヤ殺し』を読もう」として続きの収録作品に中途で移ろうとすると、レイアウト上どうしても目に入ってしまう『黒死館』最後のページに真犯人(としか思えない人物)名がまるで罰ゲームのようによく目立つ形でこれまたハッキリと載っていて、「げ!」となること必定。
「閉幕(カーテン・フォール)」という作品最後の締めのひと言はこの作品を終わりまで読破した者の少なさにもかかわらず、後世の作家達によってネタにされるなどしてとても有名。
ただ途中何度か「ああ閉幕」などと言って事件が解決し話が終わったように思わせておいて、「まだだ!まだ終わらんよ!」とばかり直後にどんでん返しが起きてまた幕がしれっと開き話が続く、というベタな演出がある。
この作品の連載第一回が掲載された〈新青年〉昭和9年4月号は、『トリビアの泉』でネタにされたこともある、
「私の連載小説『悪霊』、作者の無力でこれ以上書けませんごめんちゃい!」
という江戸川乱歩の「読者へのお詫び」が出された号である。
その乱歩は『黒死館』初単行本化の際に作品賛辞とその労をねぎらう意の序文を寄せていたが、それが偉そうに言えた立場だと思っていたのかお前は(素朴なツッコミ)。
関連リンク
小栗は1946年に死去しており、本作は1996年末で当時の著作権法により著作権切れとなっているため青空文庫にも収録されているが、こんなものを膨大なルビや手書きの記号まで含めてボランティアで入力・校閲した人たちもよくぞ完成させたものである。なお連載時は小栗の意味不明で汚い原稿を小栗夫人がぜんぶ清書して編集部に送ったとも。これもひどいと思う。
だが何といっても最大の犠牲者は、このどこまで本当のことを書いているのか噓八百だらけなのか余人には判別つかない外国文よりも難解かも知れぬ奇妙奇天烈奇々怪々な日本語文らしきものを毎月毎号ごとに編集させられ、作中大量に溢れる活字にありもせぬ謎文字をその都度わざわざ木版で彫らされた等の苦労を強いられた当時の〈新青年〉編集部や印刷業者、その後作品が再版される度に「これで正しいのか、それとも誤りを犯しているのか?」な判断に苦しむ再校正作業に尽力した編集者諸氏、そしてこんなトンデモナイ作品を読まされる(?)我々一般読者、なのではなかろうか。
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国士舘大学:勿論何の関係もない。