概要
本名は林髞(はやし・たかし)。ペンネームはその漢字を分解(解剖?)したもの。
慶応義塾大学医学部を卒業後、同校講師→助教授→教授→名誉教授となった。ソ連(現在のロシア)留学経験もあり、パブロフの犬で有名な世界的生理学者イワン・パブロフに師事。
母校慶応医学部で教鞭、研究を行うかたわら、科学知識普及会評議員時代に知り合った海野十三らの勧めで探偵小説の筆をとるようになり、1934年に『網膜脈視症(もうまくみゃくししょう)』でデビュー。KK大学精神病学教授大心池(おおころち)先生を探偵役に据えたシリーズなどを発表。
1936年に長編『人生の阿呆』で、ミステリジャンルでは初の直木賞を受賞。
他の代表作に『文学少女』『折蘆(おれあし)』『新月』『わが女学生時代の罪』など。
戦後、それまでの「探偵小説」に代わる新名称「推理小説」を初めて提唱した人物。
1969年死去、享年72。
作風その他
インターネットで検索するとすぐに見つかるいかにも堅物で頑固そうなごつい風貌の持ち主でありながら、若い頃は詩人を志したこともあるロマンチストで、毎作品ごとに異なる個性が強く謎多き女性登場人物が事件の根幹に大きく係わる作品が多いのが特徴。
また「探偵小説は純文学作品に比肩し得る」探偵小説芸術論を掲げ、同文壇の大御所江戸川乱歩や当時の本格派巨頭甲賀三郎らと激論を戦わせたことでも有名。
探偵役メインキャラクターが精神医学者の大心池先生で、作中事件の解決法として精神分析を用いることが多いため誤解されがちだが、木々本人の専門は大脳生理学である。
本職の学者業績としてもっとも一般的に知られているのは、米食中心の日本人のビタミンB1欠乏による脳機能低下を懸念しパン等の小麦食に切り替えるよう(アメリカ穀物業界からの研究資金提供等を受けて)運動したことと、その副産物として生まれた東大生協御用達「頭のよくなる『頭脳パン』」だろう。
慶大の文学誌〈三田文学〉の編集にも関与し、松本清張は木々の勧めで芥川賞を受賞することになる出世作「或る『小倉日記』伝」を同誌にて発表。デビュー当初は歴史・現代小説等を主に書いていた清張が、本格的に推理小説へと進出する契機となった人物でもある。
また同校の推理小説同好会顧問でもあった。当時の同会出身者には後に『怪獣大図鑑』で知られる大伴昌司などがいた。
前述したように今日ではすっかり定着した「推理小説」名称の生みの親だが、最初の頃は「探偵小説」の語感に強い愛着・コダワリ・浪漫性を持つ者達から「どうして推理小説なんて名前に変えたんだ!」などと叩かれ、辟易したことも多かったという。
海野十三や小栗虫太郎とは探偵同人誌〈シュピオ〉を共同創刊するなど関係が深く、そんな小栗の主治医的存在だった。その小栗は木々について「(探偵作家としては)大したことない」と言いつつ、「あの人は直木賞をとるだろう」と予言していたという。
晩年は江戸川乱歩賞の審査員も務め、あの日本ミステリ三大奇書のひとつ『虚無への供物』に辛口採点を下した人物のひとり(好みの問題、と言ってしまえばそれまでだが)。
乱歩に「作者の無力により」連載途中で中絶、未完に終わってしまった作品『悪霊』があるのは有名な話だが、この木々にも「何で途中で止めた?」真の理由が不明な未完長編問題作『美の悲劇』がある。しかも『悪霊』同様ひどく手の込んだ複雑な密室殺人トリックを前面に押し出し、その解決を投げっ放しにして永遠の謎にしてしまった共通点がある。
ちなみにこの作品、作者の没後に出された個人全集にも未収録で、今読もうと思えば当時の連載誌を古書店等で漁るより他に方法がない。
現在では
‥‥と、様々なエピソードの多い人物なのだが、令和の今ではおよそ顧みられることのほとんどない「忘れられた作家」となっているのが正直なところだろう。
(少々不謹慎な物言いかも知れないが)没後50年を迎える2019年の直前に著作権保護期間が50年→70年に延長され、その作品が青空文庫に収録されるなどしてより多くの人々の目に触れる機会を逃したことも、影響しているのかもしれない。