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畑正憲の編集履歴2024/03/20 11:43:32 版
編集者:末宗裕
編集内容:shuusei

畑正憲

はたまさのり

日本の小説・エッセイ等を書く著作家(1935-2023)。あるいは動物研究家にして、そしてプロ雀士。通称は“ムツゴロウ”で、さらに略してムツさんと呼ばれる。

概要

1935年4月17日誕生。生まれは福岡県だが医者だった父が開拓団として満州国に移り住み、幼少期をそこで過ごす。本人曰く「住めば都というが子供の時分ですら酷いと思うようなところだった」という程に劣悪な環境であり、開拓団ということもあって原野を切り開いて暮らしていたという。

太平洋戦争開戦後はさらに苦しい生活を強いられ、一番上と下の兄弟を失う悲劇に見舞われる。特に一番下の弟は病にかかって逝去した。この際、医師であった父は軍の身体検査に携わるため不在であり、後に「自分の家族より他人を優先した誇らしい日本人」と美談にされたという。

こういった経験から、畑は戦争に対してはかなり批判的な態度を取っている。

その後、兄の受験を機に父一人を残して帰国し、親族の家に移る。小学校に進学するも、預かり子だったことから厳しい態度を取られ、人間不信に陥っていった。余所者ということもあり迫害も受けたが、真っ向から決闘をして返り討ちにしていたという。

中学時代に惚れ込んだ同級生の女子と仲睦まじくなり、そのまま結ばれた。ただし早熟な恋愛は当時白い目で見られたため、告げ口されてあわや退学というところになったとか。このことは『ムツゴロウの結婚記』として映画化されたが、畑本人には無断だったうえ脚色だらけで本人曰く別物とのこと。

東京大学理学部に現役合格し、主に動物学を学んだ。しかし在学中進路で悩み、執筆者としても半端者、研究のレポートはアメーバの観察の方が面白くて進まないという板挟みに合い、結局研究室を後にしたという。

その後は身籠った妻を置いて金を稼ぐためにギャンブラー(雀士)となったが、ある日娼婦に「あなたはこんな所にいるべき人ではない」と説教を受けて反省。

家族のもとに戻って学研に就職、動物生態室で動物を題材とした映画制作に携わる。その後学研と折り合いが悪くなり辞めたとされているが、実際は自著を別会社で出すことになって揉めてしまい、クビになったとのこと。

その後、職業安定所の事務員の態度に腹を立てて喧嘩になり、やけくそになった先で学研時代に世話になっていた人物から話を受け、コピーライターとして活動。その後、デビュー作『われら動物みな兄弟』を発売する。

売れっ子作家になった1971年頃、無人島への移住を決意。これには、生の自然を味わわせることで娘の表面的な生き物好きを正すという目的もあった。彼自身競馬を好み、動物食を否定しないなど、ヴィーガニズムを持っている訳ではない。寧ろ動物愛護精神から動物食を一時期拒んでいた娘を見かねて殴った上で「そんなんじゃダメだ!生きるとは、食べるとは、そういうことなのだ!ちゃんと食べなさい!」と説得し、それによって娘は元通り動物食を行うようになった。

さらに飼っていた熊のどんべえが大きくなり、法律上小さな土地では飼えないため、北海道浜中町にムツゴロウ動物王国を開園する。ただし動物園のようなところではなく、原則非公開の施設で、その実情は1980年からスタートした特番「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」でしか見ることはできなかった(2001年に終了)。

同番組が終了した後、2004年に東京ムツゴロウ動物王国を開園。畑自身はあくまで名義貸しで経営にはノータッチというスタンスだったが、経営破綻して保証人だった畑は億単位の莫大な借金を背負うこととなる。本人曰く「関わるならしっかり関わるべきだった」と後悔の念を述べている。

8年かけて借金を完済した後は執筆業に戻ったものの、高齢故に心筋梗塞などを経て体力が落ちていった。その間、自身のyoutubeチャンネルを開設している。

2023年4月5日、心筋梗塞により搬送先の病院で死去。享年87歳。

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