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P-61

2

ぴーろくいち

アメリカ陸軍航空隊の夜間戦闘機。1940年のロンドン空襲をきっかけに、アメリカでは『レーダー搭載の夜間迎撃機』を求める声が高まっていた。これにノースロップ社は大型・重武装の双発機でうけて立ち、採用となった。愛称は『ブラックウイドー』で、「クロゴケグモ」もしくは「黒衣の未亡人」の意味がある。
アメリカ陸軍航空隊の夜間戦闘機。1940年のロンドン空襲をきっかけに、アメリカでは『レーダー搭載の夜間迎撃機』を求める声が高まっていた。これにノースロップ社は大型・重武装の双発機でうけて立ち、採用となった。愛称は『ブラックウイドー』で、「クロゴケグモ」もしくは「黒衣の未亡人」の意味がある。

『黒衣の未亡人』

『黒衣の未亡人』

P-61は非常に大型で、自重はなんと10t近くにもなる。

どれだけ大きいのか。

なんと一式陸上攻撃機よりも重い

(三四型でも8.4t程度)


さらに機体の大きさも双発爆撃機に相当するもので、

全長約15mに幅は約20mにもおよぶ。


機体の規模(大きさ)や重量など、戦闘機というよりも爆撃機に近いものがある。

実際、これらの数値はB-25に近い。

しかしP-61は3人乗り、B-25は6人乗りである。


これはレーダーの運用はまだまだ難しく、専任のオペレータが必要だった事などが要因である。

普通の戦闘機なら1人で済む仕事だが、

夜間は視界がないので操縦手・レーダー手などが分担して当たらねばならなかったのだ。

(P-61はパイロット・レーダー手・旋回機銃手の3人乗り)


実戦のP-61

実戦のP-61

ただしエンジンには大型の2000馬力級エンジン(P&W R-2800-65)を2基も搭載しており、

上昇力を生かした一撃離脱やエンジン出力の落ちる高高度飛行などは得意である。


また「双発戦闘機としては」という前提の下ならば、運動性も軽快である。

これは広大な主翼の揚力が可能にしているもので、もちろんエンジンの出力あっての事である。


しかし一番の特徴は絶大な火力であり、

胴体下部に20mm機銃を4門、

胴体上部の旋回機銃砲塔にも12.7mm機銃を4門装備している。

(20mm機銃はパイロット、12.7mm機銃は専任の機銃手と、操作はそれぞれ別。銃塔の12.7mm機銃はパイロット側でも射撃を行うことは可能)

レーダー手席にも銃塔操作用の装備があり敵戦闘機の追尾を受けた際にも攻撃を行うことが可能だった。

P-61の特徴の一つともされる銃塔は敵機識別後、固定機銃の射界に捉える間に気づかれ、回避される前に即座に攻撃を行う必要性もあったことから装備したとされる。

P-61のきっかけとなったイギリスの夜間戦闘機の要求に動力銃塔の装備があった影響ともされる。


旋回機銃のトラブル

旋回機銃砲塔には「砲塔を旋回させると気流が乱れ、操縦性に支障をきたす」

という問題があった。

クーリーハットと呼ばれる整流板の装着などが行われたが、B29用銃塔の生産も優先されたため一旦搭載が中止された。

その影響によるものかP-61Aでは生産された200機中163機、P-61Bでは450機中200機が銃塔を搭載していない。


この問題の解決にはしばらくかかり、

実戦部隊では砲塔を外して出動するという現地仕様が多くあったという。

P-61はパイロット・レーダー手・旋回機銃手の3人が搭乗しており、

こうなると当然、旋回機銃手は不要となる。


その現地仕様ではパイロットとレーダー手の2人だけの仕様とされ、

さらに乗員の配置にも工夫して若干の性能向上を果たした。(30km/h程度速くなったとか)

P-61B-15ではこの問題が解決し、銃塔が搭載され、ふたたび3人乗りに戻されている。


もちろん双発でパワー不足の心配もないので、対地攻撃機としても使われた。ロケット弾を搭載する事もでき、こちらでもP-61は恐れられている。



運用

太平洋戦線では1944年4月ごろから配備され、5月ごろにソロモン方面に進出した。その後はサイパンのB-29基地など重要拠点の防空などに従事した。

日本軍の夜間戦闘機である『月光』や『屠龍』、艦上爆撃機の『彗星』を改造した夜間戦闘機(二一戊型、三四戊型)などと戦闘が発生することもあり、稀な例で、沖縄戦において日本海軍の夜間戦闘機隊『芙蓉部隊』がP-61を撃墜したと主張するなど、日本軍機による撃墜報告もあるが、P-61は第二次世界大戦中において空戦による損失は皆無であったため、誤認戦果である。

単座戦闘機と空戦が発生することもあり、太平洋戦線では16機の単座戦闘機を撃墜したとされる。



その後のP-61

その後のP-61

のちに偵察機としても改修され、こちらは『F-15「リポーター」』と呼ばれた。

朝鮮戦争の頃にはP-82に交代し、

前線からは数を減らしていたP-61だが、F-15は初期の主力偵察機として活躍した。


製造数も少なく、(試作機含めて38機)

ジェット機の登場で上層部の関心を失いかけていたF-15だったが、

この「最後のご奉公」は大いに役立った。


F-15が作成した地図は戦争中ただひとつの航空地図として重宝され、

以降の戦争遂行を助けたのだった。


さらにその後の『ご同輩』

なお、このP-61や後継機のP-82、P-38などの成功をうけて、

空軍(戦略空軍)では、のちに『侵攻戦闘機』なる種別を開拓している。


これは『爆撃機を長距離護衛するかたわら、侵攻ルート上の地上部隊も攻撃できる戦闘機

で、F-88やF-90がこれにあたる。

評価試験の結果、性能の良かったF-88が採用となる。


だが肝心の爆撃機たるB-36の維持・導入に費用がかかりすぎ、

結局は侵攻戦闘機の予算までも喰われてしまう。

こうして全ては「おじゃん」となってしまった「侵攻戦闘機計画」だったが、

F-88の設計は後のF-101の設計に生かされ、ベトナム戦争で見事に生きる事になった。

(名前はどちらも『ブードゥー』)


なお、P-61直接の後継は「F-89『スコーピオン』」で、

こちらは空軍・州兵の防空部隊で活躍している。

ロケット弾を主武装とする迎撃戦闘機である。

『黒衣の未亡人』

『黒衣の未亡人』

P-61は非常に大型で、自重はなんと10t近くにもなる。

どれだけ大きいのか。

なんと一式陸上攻撃機よりも重い

(三四型でも8.4t程度)


さらに機体の大きさも双発爆撃機に相当するもので、

全長約15mに幅は約20mにもおよぶ。


機体の規模(大きさ)や重量など、戦闘機というよりも爆撃機に近いものがある。

実際、これらの数値はB-25に近い。

しかしP-61は3人乗り、B-25は6人乗りである。


これはレーダーの運用はまだまだ難しく、専任のオペレータが必要だった事などが要因である。

普通の戦闘機なら1人で済む仕事だが、

夜間は視界がないので操縦手・レーダー手などが分担して当たらねばならなかったのだ。

(P-61はパイロット・レーダー手・旋回機銃手の3人乗り)


実戦のP-61

実戦のP-61

ただしエンジンには大型の2000馬力級エンジン(P&W R-2800-65)を2基も搭載しており、

上昇力を生かした一撃離脱やエンジン出力の落ちる高高度飛行などは得意である。


また「双発戦闘機としては」という前提の下ならば、運動性も軽快である。

これは広大な主翼の揚力が可能にしているもので、もちろんエンジンの出力あっての事である。


しかし一番の特徴は絶大な火力であり、

胴体下部に20mm機銃を4門、

胴体上部の旋回機銃砲塔にも12.7mm機銃を4門装備している。

(20mm機銃はパイロット、12.7mm機銃は専任の機銃手と、操作はそれぞれ別。銃塔の12.7mm機銃はパイロット側でも射撃を行うことは可能)

レーダー手席にも銃塔操作用の装備があり敵戦闘機の追尾を受けた際にも攻撃を行うことが可能だった。

P-61の特徴の一つともされる銃塔は敵機識別後、固定機銃の射界に捉える間に気づかれ、回避される前に即座に攻撃を行う必要性もあったことから装備したとされる。

P-61のきっかけとなったイギリスの夜間戦闘機の要求に動力銃塔の装備があった影響ともされる。


旋回機銃のトラブル

旋回機銃砲塔には「砲塔を旋回させると気流が乱れ、操縦性に支障をきたす」

という問題があった。

クーリーハットと呼ばれる整流板の装着などが行われたが、B29用銃塔の生産も優先されたため一旦搭載が中止された。

その影響によるものかP-61Aでは生産された200機中163機、P-61Bでは450機中200機が銃塔を搭載していない。


この問題の解決にはしばらくかかり、

実戦部隊では砲塔を外して出動するという現地仕様が多くあったという。

P-61はパイロット・レーダー手・旋回機銃手の3人が搭乗しており、

こうなると当然、旋回機銃手は不要となる。


その現地仕様ではパイロットとレーダー手の2人だけの仕様とされ、

さらに乗員の配置にも工夫して若干の性能向上を果たした。(30km/h程度速くなったとか)

P-61B-15ではこの問題が解決し、銃塔が搭載され、ふたたび3人乗りに戻されている。


もちろん双発でパワー不足の心配もないので、対地攻撃機としても使われた。ロケット弾を搭載する事もでき、こちらでもP-61は恐れられている。



運用

太平洋戦線では1944年4月ごろから配備され、5月ごろにソロモン方面に進出した。その後はサイパンのB-29基地など重要拠点の防空などに従事した。

日本軍の夜間戦闘機である『月光』や『屠龍』、艦上爆撃機の『彗星』を改造した夜間戦闘機(二一戊型、三四戊型)などと戦闘が発生することもあり、稀な例で、沖縄戦において日本海軍の夜間戦闘機隊『芙蓉部隊』がP-61を撃墜したと主張するなど、日本軍機による撃墜報告もあるが、P-61は第二次世界大戦中において空戦による損失は皆無であったため、誤認戦果である。

単座戦闘機と空戦が発生することもあり、太平洋戦線では16機の単座戦闘機を撃墜したとされる。



その後のP-61

その後のP-61

のちに偵察機としても改修され、こちらは『F-15「リポーター」』と呼ばれた。

朝鮮戦争の頃にはP-82に交代し、

前線からは数を減らしていたP-61だが、F-15は初期の主力偵察機として活躍した。


製造数も少なく、(試作機含めて38機)

ジェット機の登場で上層部の関心を失いかけていたF-15だったが、

この「最後のご奉公」は大いに役立った。


F-15が作成した地図は戦争中ただひとつの航空地図として重宝され、

以降の戦争遂行を助けたのだった。


さらにその後の『ご同輩』

なお、このP-61や後継機のP-82、P-38などの成功をうけて、

空軍(戦略空軍)では、のちに『侵攻戦闘機』なる種別を開拓している。


これは『爆撃機を長距離護衛するかたわら、侵攻ルート上の地上部隊も攻撃できる戦闘機

で、F-88やF-90がこれにあたる。

評価試験の結果、性能の良かったF-88が採用となる。


だが肝心の爆撃機たるB-36の維持・導入に費用がかかりすぎ、

結局は侵攻戦闘機の予算までも喰われてしまう。

こうして全ては「おじゃん」となってしまった「侵攻戦闘機計画」だったが、

F-88の設計は後のF-101の設計に生かされ、ベトナム戦争で見事に生きる事になった。

(名前はどちらも『ブードゥー』)


なお、P-61直接の後継は「F-89『スコーピオン』」で、

こちらは空軍・州兵の防空部隊で活躍している。

ロケット弾を主武装とする迎撃戦闘機である。

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アメリカ陸軍航空隊の夜間戦闘機。1940年のロンドン空襲をきっかけに、アメリカでは『レーダー搭載の夜間迎撃機』を求める声が高まっていた。これにノースロップ社は大型・重武装の双発機でうけて立ち、採用となった。愛称は『ブラックウイドー』で、「クロゴケグモ」もしくは「黒衣の未亡人」の意味がある。
アメリカ陸軍航空隊の夜間戦闘機。1940年のロンドン空襲をきっかけに、アメリカでは『レーダー搭載の夜間迎撃機』を求める声が高まっていた。これにノースロップ社は大型・重武装の双発機でうけて立ち、採用となった。愛称は『ブラックウイドー』で、「クロゴケグモ」もしくは「黒衣の未亡人」の意味がある。

『黒衣の未亡人』

『黒衣の未亡人』

P-61は非常に大型で、自重はなんと10t近くにもなる。

どれだけ大きいのか。

なんと一式陸上攻撃機よりも重い

(三四型でも8.4t程度)


さらに機体の大きさも双発爆撃機に相当するもので、

全長約15mに幅は約20mにもおよぶ。


機体の規模(大きさ)や重量など、戦闘機というよりも爆撃機に近いものがある。

実際、これらの数値はB-25に近い。

しかしP-61は3人乗り、B-25は6人乗りである。


これはレーダーの運用はまだまだ難しく、専任のオペレータが必要だった事などが要因である。

普通の戦闘機なら1人で済む仕事だが、

夜間は視界がないので操縦手・レーダー手などが分担して当たらねばならなかったのだ。

(P-61はパイロット・レーダー手・旋回機銃手の3人乗り)


実戦のP-61

実戦のP-61

ただしエンジンには大型の2000馬力級エンジン(P&W R-2800-65)を2基も搭載しており、

上昇力を生かした一撃離脱やエンジン出力の落ちる高高度飛行などは得意である。


また「双発戦闘機としては」という前提の下ならば、運動性も軽快である。

これは広大な主翼の揚力が可能にしているもので、もちろんエンジンの出力あっての事である。


しかし一番の特徴は絶大な火力であり、

胴体下部に20mm機銃を4門、

胴体上部の旋回機銃砲塔にも12.7mm機銃を4門装備している。

(20mm機銃はパイロット、12.7mm機銃は専任の機銃手と、操作はそれぞれ別。銃塔の12.7mm機銃はパイロット側でも射撃を行うことは可能)

レーダー手席にも銃塔操作用の装備があり敵戦闘機の追尾を受けた際にも攻撃を行うことが可能だった。

P-61の特徴の一つともされる銃塔は敵機識別後、固定機銃の射界に捉える間に気づかれ、回避される前に即座に攻撃を行う必要性もあったことから装備したとされる。

P-61のきっかけとなったイギリスの夜間戦闘機の要求に動力銃塔の装備があった影響ともされる。


旋回機銃のトラブル

旋回機銃砲塔には「砲塔を旋回させると気流が乱れ、操縦性に支障をきたす」

という問題があった。

クーリーハットと呼ばれる整流板の装着などが行われたが、B29用銃塔の生産も優先されたため一旦搭載が中止された。

その影響によるものかP-61Aでは生産された200機中163機、P-61Bでは450機中200機が銃塔を搭載していない。


この問題の解決にはしばらくかかり、

実戦部隊では砲塔を外して出動するという現地仕様が多くあったという。

P-61はパイロット・レーダー手・旋回機銃手の3人が搭乗しており、

こうなると当然、旋回機銃手は不要となる。


その現地仕様ではパイロットとレーダー手の2人だけの仕様とされ、

さらに乗員の配置にも工夫して若干の性能向上を果たした。(30km/h程度速くなったとか)

P-61B-15ではこの問題が解決し、銃塔が搭載され、ふたたび3人乗りに戻されている。


もちろん双発でパワー不足の心配もないので、対地攻撃機としても使われた。ロケット弾を搭載する事もでき、こちらでもP-61は恐れられている。



運用

太平洋戦線では1944年4月ごろから配備され、5月ごろにソロモン方面に進出した。その後はサイパンのB-29基地など重要拠点の防空などに従事した。

日本軍の夜間戦闘機である『月光』や『屠龍』、艦上爆撃機の『彗星』を改造した夜間戦闘機(二一戊型、三四戊型)などと戦闘が発生することもあり、稀な例で、沖縄戦において日本海軍の夜間戦闘機隊『芙蓉部隊』がP-61を撃墜したと主張するなど、日本軍機による撃墜報告もあるが、P-61は第二次世界大戦中において空戦による損失は皆無であったため、誤認戦果である。

単座戦闘機と空戦が発生することもあり、太平洋戦線では16機の単座戦闘機を撃墜したとされる。



その後のP-61

その後のP-61

のちに偵察機としても改修され、こちらは『F-15「リポーター」』と呼ばれた。

朝鮮戦争の頃にはP-82に交代し、

前線からは数を減らしていたP-61だが、F-15は初期の主力偵察機として活躍した。


製造数も少なく、(試作機含めて38機)

ジェット機の登場で上層部の関心を失いかけていたF-15だったが、

この「最後のご奉公」は大いに役立った。


F-15が作成した地図は戦争中ただひとつの航空地図として重宝され、

以降の戦争遂行を助けたのだった。


さらにその後の『ご同輩』

なお、このP-61や後継機のP-82、P-38などの成功をうけて、

空軍(戦略空軍)では、のちに『侵攻戦闘機』なる種別を開拓している。


これは『爆撃機を長距離護衛するかたわら、侵攻ルート上の地上部隊も攻撃できる戦闘機

で、F-88やF-90がこれにあたる。

評価試験の結果、性能の良かったF-88が採用となる。


だが肝心の爆撃機たるB-36の維持・導入に費用がかかりすぎ、

結局は侵攻戦闘機の予算までも喰われてしまう。

こうして全ては「おじゃん」となってしまった「侵攻戦闘機計画」だったが、

F-88の設計は後のF-101の設計に生かされ、ベトナム戦争で見事に生きる事になった。

(名前はどちらも『ブードゥー』)


なお、P-61直接の後継は「F-89『スコーピオン』」で、

こちらは空軍・州兵の防空部隊で活躍している。

ロケット弾を主武装とする迎撃戦闘機である。

『黒衣の未亡人』

『黒衣の未亡人』

P-61は非常に大型で、自重はなんと10t近くにもなる。

どれだけ大きいのか。

なんと一式陸上攻撃機よりも重い

(三四型でも8.4t程度)


さらに機体の大きさも双発爆撃機に相当するもので、

全長約15mに幅は約20mにもおよぶ。


機体の規模(大きさ)や重量など、戦闘機というよりも爆撃機に近いものがある。

実際、これらの数値はB-25に近い。

しかしP-61は3人乗り、B-25は6人乗りである。


これはレーダーの運用はまだまだ難しく、専任のオペレータが必要だった事などが要因である。

普通の戦闘機なら1人で済む仕事だが、

夜間は視界がないので操縦手・レーダー手などが分担して当たらねばならなかったのだ。

(P-61はパイロット・レーダー手・旋回機銃手の3人乗り)


実戦のP-61

実戦のP-61

ただしエンジンには大型の2000馬力級エンジン(P&W R-2800-65)を2基も搭載しており、

上昇力を生かした一撃離脱やエンジン出力の落ちる高高度飛行などは得意である。


また「双発戦闘機としては」という前提の下ならば、運動性も軽快である。

これは広大な主翼の揚力が可能にしているもので、もちろんエンジンの出力あっての事である。


しかし一番の特徴は絶大な火力であり、

胴体下部に20mm機銃を4門、

胴体上部の旋回機銃砲塔にも12.7mm機銃を4門装備している。

(20mm機銃はパイロット、12.7mm機銃は専任の機銃手と、操作はそれぞれ別。銃塔の12.7mm機銃はパイロット側でも射撃を行うことは可能)

レーダー手席にも銃塔操作用の装備があり敵戦闘機の追尾を受けた際にも攻撃を行うことが可能だった。

P-61の特徴の一つともされる銃塔は敵機識別後、固定機銃の射界に捉える間に気づかれ、回避される前に即座に攻撃を行う必要性もあったことから装備したとされる。

P-61のきっかけとなったイギリスの夜間戦闘機の要求に動力銃塔の装備があった影響ともされる。


旋回機銃のトラブル

旋回機銃砲塔には「砲塔を旋回させると気流が乱れ、操縦性に支障をきたす」

という問題があった。

クーリーハットと呼ばれる整流板の装着などが行われたが、B29用銃塔の生産も優先されたため一旦搭載が中止された。

その影響によるものかP-61Aでは生産された200機中163機、P-61Bでは450機中200機が銃塔を搭載していない。


この問題の解決にはしばらくかかり、

実戦部隊では砲塔を外して出動するという現地仕様が多くあったという。

P-61はパイロット・レーダー手・旋回機銃手の3人が搭乗しており、

こうなると当然、旋回機銃手は不要となる。


その現地仕様ではパイロットとレーダー手の2人だけの仕様とされ、

さらに乗員の配置にも工夫して若干の性能向上を果たした。(30km/h程度速くなったとか)

P-61B-15ではこの問題が解決し、銃塔が搭載され、ふたたび3人乗りに戻されている。


もちろん双発でパワー不足の心配もないので、対地攻撃機としても使われた。ロケット弾を搭載する事もでき、こちらでもP-61は恐れられている。



運用

太平洋戦線では1944年4月ごろから配備され、5月ごろにソロモン方面に進出した。その後はサイパンのB-29基地など重要拠点の防空などに従事した。

日本軍の夜間戦闘機である『月光』や『屠龍』、艦上爆撃機の『彗星』を改造した夜間戦闘機(二一戊型、三四戊型)などと戦闘が発生することもあり、稀な例で、沖縄戦において日本海軍の夜間戦闘機隊『芙蓉部隊』がP-61を撃墜したと主張するなど、日本軍機による撃墜報告もあるが、P-61は第二次世界大戦中において空戦による損失は皆無であったため、誤認戦果である。

単座戦闘機と空戦が発生することもあり、太平洋戦線では16機の単座戦闘機を撃墜したとされる。



その後のP-61

その後のP-61

のちに偵察機としても改修され、こちらは『F-15「リポーター」』と呼ばれた。

朝鮮戦争の頃にはP-82に交代し、

前線からは数を減らしていたP-61だが、F-15は初期の主力偵察機として活躍した。


製造数も少なく、(試作機含めて38機)

ジェット機の登場で上層部の関心を失いかけていたF-15だったが、

この「最後のご奉公」は大いに役立った。


F-15が作成した地図は戦争中ただひとつの航空地図として重宝され、

以降の戦争遂行を助けたのだった。


さらにその後の『ご同輩』

なお、このP-61や後継機のP-82、P-38などの成功をうけて、

空軍(戦略空軍)では、のちに『侵攻戦闘機』なる種別を開拓している。


これは『爆撃機を長距離護衛するかたわら、侵攻ルート上の地上部隊も攻撃できる戦闘機

で、F-88やF-90がこれにあたる。

評価試験の結果、性能の良かったF-88が採用となる。


だが肝心の爆撃機たるB-36の維持・導入に費用がかかりすぎ、

結局は侵攻戦闘機の予算までも喰われてしまう。

こうして全ては「おじゃん」となってしまった「侵攻戦闘機計画」だったが、

F-88の設計は後のF-101の設計に生かされ、ベトナム戦争で見事に生きる事になった。

(名前はどちらも『ブードゥー』)


なお、P-61直接の後継は「F-89『スコーピオン』」で、

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