地域
ユーラシア大陸のヒマラヤ山脈や崑崙山脈に挟まれ、平均高度約4500mの高原が広がるアジアの地域。中国語では「西蔵(せいぞう)」と呼ばれている。
主にチベット民族が住み、ラマ仏教を信仰している。その最高位がダライ・ラマで、現在はダライ・ラマ14世。
中華人民共和国(中国共産党)による民族浄化政策で有名になってしまい、現在でも文化の破壊が進みつつある。
歴史
7世紀にソンツェン・ガンポによってチベット諸族が統一され、吐蕃(とばん)王朝が成立。唐朝と対立が続いて、一時は長安にまで侵攻したが、9世紀に両国は会盟を交わした。その際にガンポ王は唐の皇女文成公主を第二皇妃(チベット人の正室がいたとも言う)として迎える。また、ネパールのチツン姫とも政略結婚しており、吐蕃政権の対外同盟を盤石にした。
12世紀からモンゴル帝国の侵攻を受け、親モンゴルのサキャ派政権となり、サキャ・パンディタを指導者とするチベットはモンゴルの影響下に置かれた。サキャ・パンディタの甥であるパスパ(パクパ、八思巴)はクビライに仕えて帝師とされ、パスパ文字を開発するなどサキャ派は隆盛を極めた。モンゴル衰退後は政権が繰り返し変わり、17世紀からダライ・ラマ一族とそれを支えるグシハン一族の政権が成立。
清朝とチベットの関係交渉は順治帝の頃から始まり、康熙帝はチベットへの干渉を強め、グシハン体制による自治を維持させた。しかし、18世紀前半に雍正帝はチベットの支配体制を変えようと、後継争いによる内紛に乗じて出兵。グシハン一族を屈服させ、ダライ・ラマ領と四川や雲南といった清朝支配地などに地域を分割。完全に清朝の影響下に置かれた。
19世紀に反乱が起こるも、現地のガンデンポタン政府が収束させた。再び清軍の侵攻を受けるも、清朝の完全な消滅で、再びダライ・ラマとガンデンポタンの政権がチベットを統治した。
中華民国は清朝の支配領域を継承すべく、チベット支配を主張したが、独立は続いた。
20世紀になってイギリスがチベットへの干渉を始め、一方のチベットは近代化を図った。第二次世界大戦では中立を保った。
1949年に中華人民共和国が成立し、毛沢東率いる中国共産党はチベットを「中国の一部として解放する」として、1950年に人民解放軍がチベットへ侵略し、完全に併合支配した。ダライ・ラマ14世はやむなくインドへ亡命した。ちなみにスターリンはこの侵攻を認め、毛沢東に「結構なことだ」と述べた。
1965年にチベット自治区が設置され、中国人の大量移植や寺院の破壊が続き、核ミサイル基地が作られた。抵抗空しく弾圧と虐殺が繰り返しされた。80年代に改革・解放政策の中で胡耀邦総書記はチベット自治区のチベット人による自治と文化を回復させようとしたが、亡命政府との交渉が失敗し、更迭後はこの政策は撤回された。
現在においても状況は悪く、中国による弾圧や文化破壊、民族浄化など地域・民族問題は続き悪化している。なおインドに亡命政権が存在し、独立(「高度な自治」を要求する場合も)を主張している。
余談
- 某人気漫画に登場する秘術のようなものがあるのかは定かではないが、東洋武術の発祥地とされることもある。
- ソンツェン・ガンポ王と文成公主の成婚はチベットと中国の和合を象徴する事例として長く尊ばれてきたが、中国共産党はパンチェン・ラマ10世と李潔女医との結婚をその再来のごとく喧伝した。無論、前者のような平和的・和合を重んじたものではないのは明白である。
- 仏教国(チベット人からはそう見えるとのこと)である日本の仏教界と親交が深く、河口慧海をはじめ多田等観、青木文教など多くの僧侶や探検家がチベット入りしている。また、今でも僧侶だけでなく登山家やバックパッカーにとって“聖地”と言える人気を持つ。
外部リンク
関連タグ
チベット自治区、青海省、四川省、甘粛省、雲南省・・・中国支配のチベット地域