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金田正一の編集履歴

2020-03-30 02:07:56 バージョン

金田正一

かねだまさいち

日本の元プロ野球選手・監督、野球解説者・評論家、実業家、タレント(1933年 - 2019年)。

概要

1933年8月1日生まれ、愛知県中島郡平和村(現:稲沢市)出身。血液型B型。ポジションは投手。左投左打。

1950年に高校を中退し、国鉄スワローズ(現東京ヤクルトスワローズ)に入団。弱小球団のエースとして、1951年から15年のうち14回20勝以上を挙げる活躍をみせ、大エースとして「金田天皇」とまで呼ばれるほどであった。

1964年のシーズンオフに読売ジャイアンツに移籍。1969年には日本人投手では史上初にして唯一となる通算400勝を達成。同年、現役を引退。

通算400勝298敗はどちらも日本プロ野球記録であり、その他にも通算完投数365、通算投球回数5526.2、通算対戦打者数22078、通算奪三振数4490、通算与四球1808など、数多くの日本プロ野球・セリーグ記録を保持している。

金田の背番号「34」は、巨人の永久欠番の一つとなっている。1988年、野球殿堂入り。


現役引退後はロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)の監督を2度務めており、1974年には日本一に輝いている。

1978年には稲尾和久村山実らと共に名球会を創設。初代会長として、名球会入りした選手が出るたびに、金田がブレザーを贈るシーンは恒例となっていた(その後、退会)。


2019年10月6日、急性胆管炎による敗血症のため、都内の病院にて86歳で死去。


野球人として

投手としては凄まじい威力を誇った剛速球と、「2階から落ちてくるようだ」と例えられた大きく縦に割れるカーブを武器としていた。

プロ入り直後、対戦した打者から「あいつの球は速過ぎる。投手と捕手の間隔が短いのではないか?」とクレームをつけられて試合を一時中断してまで距離を測ったことがあり(結果は規定通りだった)、長嶋茂雄のデビュー戦で4三振を奪うなどのエピソードにも事欠かない。球速が衰えた晩年は、フォークボールやスローボールなどを駆使し、テクニックでカバーしていた。

投手としてだけでなく打者としても優れた実力を発揮しており、通算38本塁打を放っている(うち2本は代打)。投手なのに8回も敬遠されている。

2018年現在、日本人投手の通算本塁打記録は大谷翔平選手が更新し、現在も継続中であるが、二刀流プレイヤーである彼の本塁打は、その大半が指名打者外野手として出場している時に記録されたものであり、「投手として出場している時」に記録した本塁打数は依然として金田の記録が最多である。

金田自身もその点について言及しており、2016年に大谷が金田の記録に並んだことで金田の打撃が取り上げられ、サンデーモーニングにゲスト出演した際に「投手として打ったホームランとそうでない時に打ったホームランは区別すべきだ」と主張している。


「現役の頃は180km/h出しとった」と嘯くなど現役時代を知らない若者層からは、ネタキャラ扱いされるが、実は超理論派であり、当時のコンディショニング理論における先駆者的存在である。

スポーツ医学が発達していなかった当時から効果的とされていたマッサージはもちろん、オフは完全に休養に充て、利き腕を怪我しないよう日常生活レベルで細心の注意を払っていた。

また、食事の重要性もしっかりと把握しており、出費を惜しまず最高の食材を自ら買いだしてトレーニングメニューに合わせた献立を板前に作らせ、他の選手にも豪勢な食事を振舞っていた。ロッテ監督時代にも「選手たちに良い物を食べさせてやってほしい」と球団に掛け合ったこともある。


現役時代は人一倍ハードな練習をこなしていたことで知られ、その練習量は練習好きの長嶋茂雄が驚き、練習の虫と言われていた村山実が音を上げたほどだという。

トレーニングでは下半身の強化を重視しており、選手時代から一貫して走り込みが大事だと説いている。そのため、金田といえば「走れ走れ」というイメージが定着しているが、走らせることが却ってマイナスになるような選手には決して走らせなかったという。また、江本孟紀によれば金田は考えなしに走り込みをさせることを批判していたそうである。


豪放磊落な人柄であると同時に気性が荒かったことでも知られており、様々なトラブルを起こしている。通算退場数8回は2005年にタフィ・ローズが更新するまで日本記録だった。

乱闘では主に蹴りを多用しており、ロッテ監督時代に自分目掛けて突進してきて目の前で転んだ近鉄バファローズの助っ人外国人ジム・トレーバーの顔面に蹴りを入れたエピソードはあまりにも有名である(トレーバーはこの直前に起きた乱闘で両軍揉み合いになった際、金田に顔を踏まれていたらしい)。

しかしながら、その一方で面倒見がよく気遣い上手な人であり、審判に抗議する時は事前に断りを入れた上で怒鳴っていたことも多かったらしく、愛甲猛によれば雨の日は練習を休みにしたり、実家から届いた美味しい食べ物を選手たちに振舞ってくれたりしたそうである。先述の退場回数もその大半が監督時代のもので、これは不人気であったパ・リーグを盛り上げるための一種のプロレスであった。


金田天皇

打てば三振、守ればエラー」とまで揶揄されていたほど弱かった国鉄に在籍した金田は、球団内で異次元の成績を挙げ続た。

とにかく弱いので金田が先発ではない日も何とか6回辺りまで守り、その後金田に救援させて逃げ切るというのが定番になっており、救援勝利数も日本記録である。

また、同年代の大投手と比べても非常に高い奪三振率は国鉄の拙い守備ゆえに徹底して三振を取りに行ったがゆえであるのだが、それでもこの時代の国鉄は失策数において下位を争い続けていた。

加えて国鉄の打撃は金田がいた15年間で2回しか主要打撃タイトルをとっていないほど極めて貧弱で、1-0の完投勝敗数も日本記録。年によっては金田より打っていない打者がスタメンであった。


金田もこの悲惨なチーム事情をよく理解しており、良くも悪くも球団における天皇として君臨し、打ち込まれると勝手に降板する、監督も大エースの彼の機嫌を損ねないように気をつかうなど「監督を監督する選手はあいつくらい」と揶揄されるほどの権勢を誇った。

その象徴的な逸話として、とある試合でプロ入り初勝利を目前にした島谷勇雄という投手が勝利投手の権利を得ようという時に、金田が10年連続20勝達成のために「ピッチャー、ワシ」と勝手に出ていって勝ち星をかっさらってしまったことがある。


このようなワンマンぶりを発揮していた金田だが、決してチームから孤立していたわけではなく、誰にも真似できない練習量や、少しでも客に来てもらおうと自らチケットの手売をするなど面倒見のいいガキ大将的な存在であり、皆から慕われていたという。先述の島谷も結局はプロ未勝利で終わったが、今では笑い話として済ますなど恨まれるような存在ではなかった。


余談

鉄人28号の金田正太郎の名前の由来でもある。

また、巨人の星侍ジャイアンツでも、主人公の良き理解者として大きな存在感を放っている。


実弟の金田高義、金田星雄、金田留広は元プロ野球選手。(1軍経験があるのは留広のみ)

妻は元宝塚歌劇団の女優、雅章子(みやび・のりこ、本名金田敏子=かねだ・としこ)。

息子は俳優の金田賢一。甥に元プロ野球選手の金石昭人がいる。

※留広は2018年10月2日に71歳で死去。死因は公表されていない。(スポーツ報知より

雅章子こと敏子夫人は2020年2月27日に89歳で死去。死因は心不全だった。(金田賢一のfacebookより


芸能界にも、大物俳優・歌手から芸人のブルゾンちえみまで広く親交を持った。

(スポーツ報知より。1.2.3.

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