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木曾義仲の編集履歴

2020-06-21 13:51:30 バージョン

木曾義仲

きそのよしなか

平安末期の武将の一人、源義仲の通称。

生没年 久寿元年(1154年)~寿永三年(1184年)

平安時代末期、信濃源氏武将

源義仲ともいわれる。異字体で木曽義仲とも書かれる。


概要

 河内源氏の一族、河内源氏の棟梁・源為義の次男・源義賢の子として生まれる。幼名は駒王丸。木曽の中原氏によって育てられ、女武者として有名な巴御前や重臣の今井兼平、樋口兼光らは幼馴染である。源頼朝源義経の従兄弟にあたり、頼朝とともに源氏の指導者の1人である。

 


生涯

幼少の時、父・義賢が兄・源義朝の長男・源義平に殺害され、斎藤実盛らによって、木曾の豪族、中原氏に匿われ成長する。通称を「木曾次郎」と呼ばれた。


 治承四年(1180年)、叔父・源行家のもたらした以仁王の令旨を得て平家追討の兵をあげた。以仁王の遺児・北陸宮を抱え、北陸方面から京を目指し、横田河原の戦い、火打城の戦い、般若野の戦いの戦いに勝利して勢いづく。寿永二年(1183年)、加賀国と越中国の境にある倶利伽羅峠において平維盛率いる大軍を敗り(砺波山の戦いともいう)、都落ちした平家に代わって入京する。


 日の出の勢いとも言える義仲に対して、朝廷の最高権力者・後白河法皇はその功を賞して「朝日将軍(旭将軍)」の称号を与えたが、その後の義仲の皇位継承への介入、指揮系統の乱れから狼藉を働く将兵が相次ぎ、都における評判はまたたく間に失墜。流石にまずいと自覚した義仲は軍を移動させて西の平氏と戦うが、水上戦に慣れてない義仲は苦戦を強いられ、その間に法皇は鎌倉に拠点を置く源頼朝に義仲追討の命を下した。義仲は東西の敵から挟み撃ちになる形になり、苦肉の策として、法住寺を襲撃して後白河法皇を幽閉し、東から攻め寄せる鎌倉勢に備えた。義仲はこの際に征東大将軍に任じられている。

 寿永三年(1184年)正月11日、義仲は頼朝が派遣した源範頼・義経軍と戦って敗れ、近江国粟津ヶ原で戦死した。その最期は、まず巴御前を逃がした後、今井兼平が敵の大軍を食い止めるために囮となるも、義仲の馬が深田に足を取られて動けなくなってしまい、不幸にも流れ矢に当たって討たれたと言われている。


評価

義仲は若くして英雄の資質を有し、武勇と風采そして人情を備えていたが、田舎育ちで公家文化に疎かった。それゆえ格式としきたりを重視する朝廷に受け入れられず、滅び去るほか無かったのである。


「眉目形はきよげにて美男なりけれども、堅固の田舎人にて、あさましく頑なにおかしかりけり」

「色白う眉目は好い男にて有りけれども立ち居振る舞いの無骨さ、言いたる詞続きの頑ななる事限りなし」

(『源平盛衰記』)


長野県歌の「信濃の国」では木曽義仲も郷土の英雄として扱われている。しかし彼は実際は埼玉県(武蔵国)の出身である。

松尾芭蕉は義仲の生涯に思いを馳せ、遺言により死後義仲寺に祀られている。


関連人物

源義賢 - 父、源為義の次男。

中原兼遠 - 育ての親。

木曾義高 - 嫡男。

源頼朝源義経 - 従兄弟。

巴御前 - 妾。家臣。兼遠の娘。

山吹御前 - 侍女。巴御前と共に武将として活躍した。

今井兼平樋口兼光根井行親楯親忠 - 配下。義仲四天王と呼ばれた。

覚明 - 右筆。


関連書籍

吾妻鏡 源平盛衰記 玉葉 平家物語

百錬抄 吉記


関連タグ

源平 富山 長野 諏訪大社

平安時代 日本史 歴史創作

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