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星野仙一の編集履歴

2021-04-09 02:15:15 バージョン

星野仙一

ほしのせんいち

日本の元プロ野球選手。中日ドラゴンズの投手を経て、中日・阪神・楽天監督を歴任。普段は穏やかだが、マウンドに立てば威圧的なまでの闘志と気迫でチームを叱咤する闘将。

経歴

中日ドラゴンズの投手。右投右打。岡山県出身。

明治大学から、1969年中日ドラゴンズに入団、当初の背番号は22。1970年より20に変更。

中日にドラフトで1位に指名される直前、巨人は神奈川・武相高校の島野修投手を一位指名。このとき、巨人に1位指名されると思っていた星野は「巨人は島と星をまちがえたんじゃんないか」と叫んだという。

また、明大時代は田淵幸一山本浩二冨田勝のいわゆる「法大三羽烏」とライバルであると同時に無二の親友関係を築いた。ダイエー監督時代の田淵が起こした「トレード失言事件」でバラされた選手は山本が監督を務めていた広島の選手で、その相手は星野が監督を務めていた中日だったとされており、この3人の関係が仇となってしまった形である。一方で、田淵は阪神、楽天で副官的なコーチとして星野を支えている他、コーチ人事としては島野育夫を自らの右腕として重用。2007年に島野は亡くなるが、この時星野は「寿命を縮めてしまった」と悔いる発言をしている。


1980年、いわゆる「宇野ヘディング事件」が起きる。この年の8月26日、先発した星野は巨人打線を見事無得点に抑えていたが、7回裏2死一塁、巨人の代打・山本功児がショートフライを打ち上げ、巨人の攻撃が終わったと思いきや事件が起こった。あろうことか中日のショート・宇野勝が側頭部に打球を当てボールは左中間を転々、レフトは慌ててバックホームをしたが間に合わず巨人に1点を献上することとなり、くやしがる星野はグローブをグラウンドに投げつけることとなった。なお、この珍プレーは長く野球ファンに語り継がれ、珍プレー特集では必ずと言っていいほど長く放映されている。

1982年に現役を引退。通算500試合登板、146勝121敗34セーブ。なお、セ・リーグの初代セーブ王でもある。


1987~91、1996~2001年には中日ドラゴンズの監督を務め、1988、1999年にはセ・リーグ優勝。

2002~03年には阪神タイガースの監督を務め、2年目の2003年にセ・リーグ優勝を果たす。翌04年には阪神タイガースのシニアディレクターに就任。

2008年には北京オリンピック野球日本代表の監督に就任するも、オリンピック本選ではメダルを獲得できず、第4位という惨憺たる結果に終わる。

2010年オフにはタイガースを退団し、東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任することが発表された。3年目の2013年にパ・リーグ優勝。球団そのものとしても東北に本拠を置く球団としても史上初の優勝であり、星野自身はプロ野球史上3人目(※1)の異なる3球団で優勝、また史上6人目(※2)のセ・パ両リーグでの優勝を達成した監督となった。その後クライマックスシリーズを経て日本シリーズも制し、星野自身も選手・監督時代を通じて初の日本一を達成した。


2014年、難病である黄色靭帯骨化症と診断され休養を挟んで復帰したが、最下位に沈み、監督を辞任した。


その後は球団会長として現場指揮を取っていたが、今度はすい臓がんに侵される。2017年に野球殿堂入りを果たし、その年のオフに盟友の田淵や山本、教え子たちを招いた祝賀会を行うも年末に容態が急変し2018年1月4日死去。享年72(70歳没)。

中日、阪神、楽天の3球団は名選手にして名監督であった星野を偲んで献花台を設置し、追悼試合が行われた。また後に楽天はチーム初の日本一へと導いた功績を讃え、監督時代に長らく背負い続けた背番号「77」を永久欠番とすることを発表した。


※1 三原修、水原茂に次いで

※2 三原修、水原茂、広岡達郎、野村克也、王貞治に次いで


人物

表向きは割と穏やかだが、試合になれば『燃える男』『闘将』の異名で有名な激情家の素顔を露わにする。その並々ならぬ気迫と闘志ゆえに「愛のムチ」という名の鉄拳制裁を働く事も度々で、所属選手には流血や顔面が腫れ上がるほどの過激な暴力を振るう事もあった。中日時代の中村武志は星野から日常的に殴打を受けていたという。その強面ぶりから審判にすら怖れられた。

このことから、野球界に残る悪しき精神主義、前時代的精神の象徴として語られ、野球のイメージを損なう存在としても嫌われることも多い。

「覚悟しておけ」(第1次中日監督時)や「わしが育てた」(北京オリンピック監督時)に代表されるように放言も多く、手放しで評価できる手腕の持ち主だったとは言い難い面がある。

ただし、その気迫が選手たちに伝播すると強烈な爆発力を生み、チームをリーグ優勝へと牽引する原動力ともなるため、選手やファンへのカリスマ性も高い。選手への接し方も単に凄みをきかすだけではなく、ある外国人選手は確かに体罰はあったことを認めつつも基本的には色々気にかけてくれる優しい監督であったと語っている。


『星野』=『乱闘』というイメージがあるが、現役時代は1度も退場を喰らったことがない。


加えてピッチ外では稀代の人たらし、特にジジ転がしとマスコミの手なずけにかけては天才的であったといい、球界で長きにわたって成功した理由も選手や指揮官としての実績だけではなく、豊かな人脈にもあった。


長らく日本シリーズはおろかオリンピックでも勝てなかったことから「短期決戦に弱い監督」の代名詞であった。また、使えると思った選手はとことんまで使い潰す傾向にあり、与田剛他複数の選手生命を縮めてしまったとして批判されることがある。


巨人キラー

星野が打倒巨人のスタンスを掲げだしたのはなんと大学4年生時のドラフトの頃からである。冒頭の「ホシとシマの間違い」の詳細な経緯になるが、星野は巨人から「田淵を1位指名できなかった場合に外れ1位として指名する」という約束が事前にあったが、巨人は高校生投手の島野修(のちに阪急ブレーブスのマスコットであるブレービーやオリックス・ブルーウェーブのマスコット、ネッピーのスーツアクターとなる)を1位指名。それを知った星野は「ホシとシマの間違いやろ」と言ったという。この出来事が、現役時代から指導者時代に至るまで一貫する打倒巨人のスタンスを形成させたといわれる。通算成績でも、長嶋茂雄王貞治らが活躍したV9時代を含む巨人を相手に、35勝31敗と勝ち越しを記録。巨人キラーとしてその名を轟かせた。対巨人戦30勝以上を記録する投手の中で勝ち越しているのは平松政次、川口和久と星野のみ。その中の最高勝率は星野である。星野本人は「野球中継は当時巨人戦が多く、当時の巨人主権試合の試合開始時間が18時20分で、地元の岡山での放送は20時頃に中継が始まるので、その間に監督から投手交代を告げられないように投げていた。家族や友達に自分が投げていることを見せたかった」と語ったことがある。


なお巨人が星野のドラフト1位指名を回避した理由は、星野が肩を壊しているという情報を入手したためであった(実際に肩を痛めたことがあったという)。そのことを現役引退後に川上哲治から告げられ、それ以降は巨人に対するわだかまりが消えたと自著に記している。


阪神キラー

巨人キラーの代名詞として知られているが、同時に阪神キラーでもあり、対巨人戦を上回る通算36勝を阪神から挙げている。しかし阪神戦に強いということに関してはあまり知られていない。

1973年10月20日に9年ぶりの優勝を目指す阪神に対し完投勝利を挙げるも、星野本人は阪神と優勝争いしていた巨人に優勝させたくないと考え、この試合では「負けてもええわ」「オレの球を打ってくれ」の気持ちで投げていた。が、阪神打線は凡打を重ね敗戦し、巨人はV9を達成したのである。この時の星野について、当時阪神の中心打者の1人だった藤田平は雑誌での江夏豊との対談で、「そういう風に考えているときのほうが得てしていいボールが来るもんなんやね。ぜんぜん打てる気がせんかった」と語っている。なお、江夏はこの試合前に阪神の幹部に「勝たんでええ」と言われていたという。

・・・そんな彼がもともと阪神ファンで、後に阪神を率いるとは誰が思っただろうか。


関連タグ

プロ野球

監督

中日ドラゴンズ 阪神タイガース 東北楽天ゴールデンイーグルス

熱血 闘将

わしが育てた:ネタ扱いが多いが、実際星野監督時代(3球団とも)に高卒入団や移籍で後の活躍の地歩を築いた選手は少なくない。

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