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ダイタクヘリオスの編集履歴

2022-01-17 14:47:44 バージョン

ダイタクヘリオス

だいたくへりおす

JRAの元競走馬・種牡馬。(サムネ画像左)

※本馬をモチーフとした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するウマ娘についてはダイタクヘリオス(ウマ娘)参照。


概要

1987年4月10日生まれ。父ビゼンニシキ、母ネヴァーイチバン

ビゼンニシキはシンボリルドルフと同期でライバルと言われた。

馬名は馬主・中村雅一の経営する大拓(株)とギリシャ神話の太陽神ヘリオスを組み合わせたもの。


通算35戦10勝(GⅠ2勝)。獲得賞金6億8995万2400円。

短距離、マイルを中心に活躍し、先行や逃げを得意とした。

岸滋彦騎手の代表的騎乗馬。


カブラヤオーとは母親つながりで親戚である(母の母ミスナンバイチバン)。


主な競争歴

1989年

1990年

1991年

1992年

  • 3月1日、マイラーズカップは60kgのハンデを背負いながら5馬身差で連覇し、重賞5勝目。
  • 5月17日、安田記念6着。
  • 6月14日、宝塚記念5着。
  • 10月11日、毎日王冠はレース前に騎手を振り落とすなど暴れたが、レースはレコードタイムで逃げ切り重賞6勝目。
  • 11月1日、秋の天皇賞メジロパーマーとの逃げ争いの末失速し8着。超ハイペースに巻き込まれたトウカイテイオーは7着に終わり、初めて掲示板を外した。
  • 11月22日、マイルチャンピオンシップで史上2頭目の連覇。
  • 12月20日、スプリンターズステークス4着。
  • 12月27日、連闘で臨んだ有馬記念では再びメジロパーマーと共に逃げ12着。メジロパーマーは1着。これが引退レースとなった。

引退後

1996年より種牡馬となり、ダイタクヤマトなどを輩出。

2008年9月に種牡馬を引退し、青森県の牧場で功労馬として余生を過ごす。12月に21歳で死亡。


余談

  • パドックでイレ込んだり、レース中にかかりまくってバタバタしている方が好走した。
  • 1番人気で惨敗、人気薄で1着というパターンを繰り返し「オッズを見る馬」と呼ばれるなど、何かとネタにされる人気馬だった。馬券的にも人気薄になったら来るということで穴党には根強い人気があった。1番人気で勝ったのは1989年のさざんか賞のみ。
  • 一番人気を飛ばしてしまうのは自分が一番人気の時に限らない。5歳になって以後、ダイタクヘリオスが出走したレース全てにおいて一番人気の馬は敗北している。(例:1991年安田記念のバンブーメモリーは4着、同年高松宮杯のダイイチルビーは2着、1992年天皇賞(秋)と有馬記念のトウカイテイオーはそれぞれ7着と11着)勝手に潰れる玉砕型の逃げ馬ではないので放置するわけにはいかず、かと言って追えば消耗してしまい共倒れになってしまうというやっかいな馬だった。JRAの「名馬の肖像」では彼一頭だけ敵目線でのキャッチコピーが添えられている。

   アイツには近づくな 真っ向から挑めば灼熱の炎に焼き尽くされるだろう

   かといって慎重に距離を置けば いつの間にかほら 手の届かないところへ

   これほど厄介な敵などそうはいない


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