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シンボリルドルフ

しんぼりるどるふ

日本中央競馬会に所属していた競走馬・種牡馬(1983 - 2011)。日本で初めて無敗の牡馬クラシック三冠を達成した。
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ウマ娘プリティーダービーに登場する競走馬シンボリルドルフをモチーフとしたウマ娘については

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85年ジャパンカップ

ある男が言った。「競馬に絶対はないが、“その馬”には絶対がある。」

勝利より、たった三度の敗北を語りたくなる馬。

シンボリルドルフ。永遠なる皇帝。

その秋、日本は世界に届いていた。

「全世界を席巻せよ。」

  • JRA・2013年度GⅠレースCMシリーズ「The LEGEND」『ジャパンカップ』

「勝ち方を極めたい。」

この馬を初めて見た時、いずれクラシックを制する馬だと思いました

岡部君にも ルドルフは、ずーっと君が乗らなければいけないよ と言ってきました

1000mの新馬戦で1600mの競馬をさせ、

1600mの いちょう特別 では府中の2000mを意識して乗ってもらいました

もちろん岡部君も合意の上で・・・

デビュー前から常にルドルフは負けない、と言い続けてきたのも

我々はこの馬の並はずれた素質に最初から気づいていたからです

ルドルフは人知を超えた馬

この馬を授かったこと自体が奇跡なんです

五冠を達成、史上最強馬としての名声を得たルドルフ

より見事なレースぶりでみなさんの期待に応えさせたいと思っています

野平祐二調教師談


「君臨へ」

天地人の三界に

広く名は知れ渡れど

いまだ民からの信は遠く

傷つけられし栄誉の

その痛みをもってはじめて

臣下の望みを知る


それはすなわち圧倒


では武勲数多の王どもを

苦も難もなく屈服させようぞ

さすれば皇帝の座は我に


概要

日本中央競馬会(JRA)に所属していた競走馬種牡馬(1983年~2011年)。

主な勝ち鞍は牡馬クラシック三冠(1984年)・有馬記念(1984年、1985年)、天皇賞(春)(1985年)、ジャパンカップ(1985年)など。

日本競馬史上初の無敗のクラシック三冠馬であり、その優れた戦績や馬名から皇帝の異名で知られている。


略歴

誕生~3歳

※この記事では、原則として馬齢表記に旧表記を用います。


1981年3月13日、北海道門別町シンボリ牧場で誕生(84世代)。馬名の由来は馬主の冠名「シンボリ」と、神聖ローマ帝国の初代君主・ルドルフ1世に因むものである。

父は以前から数多くのGⅠ馬を輩出し、気性難でも知られたパーソロン。母スイートルナ、母父がシンボリ牧場産の名馬スピードシンボリという血統だった。

この配合はそれまでも数回試みられたが、気性難により大成する事が無かった。しかし、シンボリ牧場のオーナーであった和田共弘は諦めずにこの配合を繰り返し、その結果生まれたのがシンボリルドルフである。兄たち同様激しい気性を持っていたが、非常に賢かった。

額には母の名前を思わせる三日月のような流星があった。


1983年、美浦トレーニングセンター野平祐二厩舎に入厩。調教助手は後に独立して厩舎を開業し、数々の名馬を手掛けることとなる藤沢和雄だった。


7月23日、新潟競馬場の新馬戦でデビューし1着。この時、主戦騎手の岡部幸雄は「1000mで1600mの競馬を覚えさせた」と語っている。

10月29日、次走のいちょう特別も勝利。野平調教師は「1600mで2400mの競馬をしていた」と評した。

その後、朝日杯3歳ステークスではなく11月27日のオープン一般競走に出走し、難なく勝利。翌年へ向け、3歳時代を無敗のまま終えた。

シンボリルドルフが朝日杯に出走しなかったのは馬主・和田の意向である。ジャパンカップのため来日していた海外の競馬関係者に「日本にも凄い馬がいる」事を見せつけてやろうと考えたためであった。


4歳

1984年3月4日、皐月賞トライアルの弥生賞GⅢ)で始動。岡部騎手はそれまで無敗だったビゼンニシキの主戦だったが、「僕が選んだ方が強いと思ってください」とシンボリルドルフを選択し、ビゼンニシキ陣営が憤慨して遺恨が残る事となった。

1番人気こそビゼンニシキに譲ったが1着。皐月賞への出走権を手にした。レースではビゼンニシキにぶつけられ外傷を負うアクシデントがあった。


4月15日、クラシック一冠目の皐月賞に出走。単勝オッズ1.5倍という圧倒的一番人気に推された。シンボリルドルフとビゼンニシキに人気が集中する事が予想されたため、2頭のみ単枠指定となった。

レースでは先行策を取って3・4番手辺りで競馬を進め、第4コーナーで先頭に立つと、ビゼンニシキとの激しい叩き合いとなり、1と1/4馬身差で勝利。

シンボリルドルフは最終コーナー出口で追い込んでくるビゼンニシキに対し斜行して体当たりして進路を妨害し、不利を受けたビゼンニシキ陣営から抗議を受けたが着順は覆らなかった。レース後、日本中央競馬会は降着制度導入の検討を始めた。

レース後の記念撮影の折り、岡部騎手は「まずは一冠」という意で高く一本指を掲げた。


5月27日、クラシック二冠目の東京優駿に出走。

シンボリルドルフには勝てないという事で回避馬が相次ぎ、戦後最少となる21頭立てのレースとなり、皐月賞同様ビゼンニシキと共に単枠指定とされた。単勝オッズは1.3倍となった。

レースではスズマッハが逃げ、岡部騎手はシンボリルドルフを好位につけようとしたが、向こう正面で勝負に出ようとした岡部騎手の指示に全く反応を見せず、スタンドにはどよめきが広がった。しかし、シンボリルドルフは直線に入ると自らハミを取って進出し先行勢を一気に差し切った。ビゼンニシキは14着に沈む。

シンボリルドルフが指示に従わなかったことに関し岡部騎手は「ルドルフに競馬を教えてもらった」と語った。口取り式では、岡部騎手が天に向けて二本の指を掲げ、無敗の三冠馬というかつてない大記録に向けて、競馬界の期待は高まっていった。

馬主の和田はシンボリルドルフを7月のキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス(イギリス)へ出走させる計画だったが右脚を故障して中止となり、休養に入る。


9月30日、菊花賞トライアルのセントライト記念(GⅢ)で復帰し、レコードタイムを叩きだし快勝。


11月11日、クラシック三冠目の菊花賞に出走。単勝オッズ1.3倍の一番人気だった。

中団でレースを進め、最終直線で一気に抜け出し、外から強襲してきたゴールドウェイを3/4馬身差で抑え、優勝。

遂に日本競馬史上4頭目、そして史上初の無敗の三冠馬の栄冠を手に入れたのであった。表彰式では、岡部騎手が三冠を意味する三本指を掲げた。


11月25日、ジャパンカップに出走。前年クラシック三冠を達成していたミスターシービーも出走し、史上初となる三冠馬同士の直接対決となり、日本馬による初のジャパンカップ制覇に期待が高まった。

1番人気はミスターシービー。シンボリルドルフは下痢を発症して不調であり、菊花賞から中1週という強行スケジュールもあり4番人気と人気を落としていた。

しかし、10番人気の伏兵・カツラギエースがスローペースの大逃げを打ち、そのままベッドタイム(イギリス)の追撃をかわし1着入線。日本馬初のジャパンカップ制覇を成し遂げた。

シンボリルドルフは生涯初の敗北を喫し、3着なので連対も外す。ミスターシービーも10着と惨敗だった。


12月23日、暮れのグランプリ有馬記念では単勝オッズ1.7倍の1番人気に推された。

レースでは、前走で初黒星を喫したカツラギエースを徹底マーク。直線でカツラギエースをかわし、2馬身差をつけて1着入線。ジャパンカップの雪辱を果たした。

カツラギエースはこの有馬記念を最後に引退する事が発表されていたため、リベンジを果たすチャンスはここしか無かったのである。

レース後の表彰式では、岡部騎手が「四冠」を示す四本目の指を立てた。


5歳

1985年1月、1984年度の年度代表馬に選出された。


3月31日、日経賞GⅡ)で始動。持ったまま4馬身差つけて圧勝し、無敗の3冠馬の貫禄を示した。


4月29日、天皇賞(春)に出走し、2馬身半差で快勝。岡部騎手は五本指を掲げ、五冠目の達成を表した。

もはや国内に敵はおらず、前年頓挫したキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスへの遠征も計画された。

遠征の資金稼ぎため宝塚記念へと出走する予定だったが、阪神競馬場のコースのが剥がれた部分にシンボリルドルフが足を取られて転倒し、これに和田が激怒し、前日になって出走が取り消された。

それ以外にも、シンボリルドルフの体調不良を察して出走を取りやめようとする野平調教師と、あくまで出走させようとする和田が対立し、和田側が折れたという経緯もあった。

結局、海外遠征には和田の所有馬・シリウスシンボリが単独で向かった。


シンボリルドルフの回復は順調とは言えず、和田が「海外遠征を中止し、シンボリルドルフを引退させる」という談話を発表した。この知らせを聞き、先だって欧州に居た岡部騎手は酷く落胆した。

その裏で治療が続けられ、一か八かで行った笹針治療が功を奏し快方へ向かった。和田が引退宣言を撤回し、現役続行となった。


10月27日、休養明けで天皇賞(秋)に出走するが、万全の状態では無かった。

出遅れて最後方となるが、直線入り口では早くも先頭という強引なレース運びで場内は騒然となった。直線で後続を引き離しにかかったが、13番人気のギャロップダイナの大外からの強襲に屈し、2着に敗れた。


11月24日、1番人気でジャパンカップに出走。無難にレースを進め、六つ目のGⅠ勝利。2着には船橋競馬場所属のロツキータイガーが入線し、日本馬によるワンツーフィニッシュとなった。

レース後の表彰式で岡部騎手は開いた掌に指を一本沿え、六冠を表現した。


12月22日、国内でのラストランとなった有馬記念に出走。

ミホシンザンに4馬身差をつけて圧勝し、盛山アナの「世界のルドルフ、やはり強い!3馬身、4馬身、日本のミホシンザンを離す!日本最後の競馬!最後のゴールイン!ルドルフ圧勝致しました!日本でもうやる競馬はありません!あとは世界だけ!世界の舞台でその強さをもう一度見せてください!」という名実況と共に語り継がれた。


6歳

1986年1月、1985年度の年度代表馬に選出された。


海外遠征が計画されるが、遠征先を巡って和田と野平が対立し、和田は野平厩舎の関係者を帯同させず、調教などを全てアメリカのスタッフに任せるという異常事態が起こっていた。


3月29日、サンタアニタパーク競馬場カリフォルニア州)でサンルイレイステークス(GⅠ)に出走したが、途中横切ったダートコースで左前脚繋靭帯炎を発症し、ダハールの6着に敗れた。

帰国後、再度の遠征が検討されたが、最終的に現役引退が決定。


12月7日、中山競馬場で引退式が催された。この時、シンボリルドルフは「七冠」を示す7の数字と王冠が描かれたゼッケンをつけて登場した。


引退後

総額10億円のシンジケートが組まれ、シンボリ牧場で種牡馬生活に入る事となった。

内国産種牡馬にしては成功といえ、多くの重賞勝ち馬を輩出した。

特に初年度産駒のトウカイテイオーは、牡馬クラシック2冠を達成した他、度重なる故障から不屈の闘志で復活を果たし、「皇帝」から「帝王」へと繋がる血統ロマンに魅せられた競馬ファンも多かった。


1990年代に入るとサンデーサイレンスブライアンズタイムトニービンが種牡馬として中央競馬を席捲し、シンボリルドルフの種付け頭数も大幅に落ちていった。


2004年、種牡馬を引退し、シンボリ牧場で功労馬として余生を過ごす。


2010年、北海道の寒さはきついのではないかという配慮から千葉県の千葉シンボリ牧場に移動された。

同年、ジャパンカップが第30回目を迎えた事を記念し、ルドルフは東京競馬場パドックに24年ぶりに現れた。高齢により多少馬体が細くなってはいたがガッチリしており、毛並みもツヤツヤと、とても20年以上前の馬とは思えない若々しい姿であった。

過去の栄光を知る者たちに「今から走らせても通用するのではないか」と言わしめた。


2011年10月4日、繋養先の千葉シンボリ牧場で死亡(30歳)。死因は不明。

数日前から体調を崩していたが、それまでは高齢の馬とは思えないほど元気だった。

この年のペルセウスステークスオパールステークスは、「シンボリルドルフ追悼競走」と冠されてのレースとなった。


競走成績

レース名グレード競馬場人気着順騎手
3歳新馬新馬新潟1番1着岡部幸雄
いちょう特別400万下東京1番1着岡部幸雄
3歳オープンOP東京1番1着岡部幸雄
弥生賞GⅢ中山2番1着岡部幸雄
皐月賞GⅠ中山1番1着岡部幸雄
東京優駿GⅠ東京1番1着岡部幸雄
セントライト記念GⅢ中山1番1着岡部幸雄
菊花賞GⅠ京都1番1着岡部幸雄
ジャパンカップGⅠ東京4番3着岡部幸雄
有馬記念GⅠ中山1番1着岡部幸雄
日経賞GⅡ中山1番1着岡部幸雄
天皇賞(春)GⅠ京都1番1着岡部幸雄
宝塚記念GⅠ阪神取消
天皇賞(秋)GⅠ東京1番2着岡部幸雄
ジャパンカップGⅠ東京1番1着岡部幸雄
有馬記念GⅠ中山1番1着岡部幸雄
サンルイレイステークスGⅠサンタアニタパーク3番6着岡部幸雄

余談

絶対

調教師・野平祐二は1985年の天皇賞(秋)の敗戦後に「競馬に絶対はないと言うが、ルドルフは例外。彼には絶対があるんです」と言い切った。


性格

厩舎にいる際は気が荒く乱暴であり、その様から関係者から「ライオン」と呼ばれていた。

一方で馬房の外では堂々と振る舞って見苦しいところを見せず、TPOを理解していたとされる。


産駒「ヤマトダマシイ」

産駒にヤマトダマシイという馬が居た。母バタイユ、母父キタノカチドキという血統だったが、新馬戦で大きく出遅れてしまう。しかし14頭をまとめて差し切った上3馬身差をつけて圧勝するという凄まじいレースを見せた。

一時はビワハヤヒデナリタブライアン等とに互角以上に戦える可能性があると話題になったものの、2戦目の条件戦で競走中止、予後不良となってしまった。

同馬を管理していたのは厩舎開業から数年しか経っていなかった藤沢和雄であった。藤沢はヤマトダマシイの死を未だに悔んでおり、それが「馬を大事に使う」という藤沢厩舎の方針につながった。


謎の馬「サードステージ」

人気競馬シミュレーションゲームであるウイニングポストシリーズには、トウカイテイオーの子供でルドルフの孫にあたるサードステージという馬が登場している。シリーズ1作目から登場しているスーパーホースであり、ルドルフの意思とテイオーの無念を受け継ぎ、無敗の三冠に挑むという設定である。多くの場合化物じみた強さに調整されているため、プレイヤーが彼に勝利するのは至難の業。彼に勝利する事が、ウイニングポストシリーズの1つの目標なのかもしれない。


清酒

シンボリ牧場を営む和田家の親戚筋にあたる、田村家が経営する島根県の酒造メーカー「簸上(ひかみ)清酒」より、シンボリルドルフをイメージした「七冠馬」という名前の日本酒が販売され、同社の看板商品となっている。

2022年3月13日(ルドルフの誕生日)にウマ娘のシンボリルドルフをラベルにあしらった限定醸造品の発売が告知され、即日完売となった。

なお、この酒のCMのナレーションは神谷明が担当している。神谷と田村家は古くから付き合いがあり、その縁による。


「ルドルフの呪い」

シンボリルドルフはGⅠ7勝を成し遂げて以降、テイエムオペラオー(2001年の春の天皇賞で達成)・ディープインパクト(2006年の有馬記念で達成)・ウオッカ(2009年のジャパンカップで達成)・ジェンティルドンナ(2014年の有馬記念で達成)・キタサンブラック(2017年の有馬記念で達成)と、ルドルフと同じくGⅠ7勝を達成した競走馬はいたものの、なかなかルドルフの記録を超える馬は現れなかった。俗に「ルドルフの呪い」と言う。

しかし、シンボリルドルフのGⅠ7勝達成から約35年後の2020年、アーモンドアイが天皇賞(秋)を勝利してGⅠ勝利記録を史上最多となる8勝に伸ばし、このジンクスが破られることとなった。アーモンドアイは引退レースとなったこの年のジャパンカップも勝利し、日本馬のGⅠ最多勝利記録を9勝(海外GⅠ1勝も含む)に伸ばしている。

2021年にはオジュウチョウサン中山大障害を勝利し、平地と障害競走という違いはあれどGⅠ8勝を記録し、再びこのジンクスが破られることとなった。


アナウンサー泣かせ

馬名が発音しづらいことで知られており、盛山毅アナからはルドルフ、杉本清アナからはシンボリと略して呼ばれることが多かった。


秋には欧州の挑戦者が……

引退レースとなったサンルイレイハンデキャップでダートコースを横切ったことで脚を痛めたが、この年のブリーダーズカップでは80年代の欧州最強馬ダンシングブレーヴが同じくダートコースを横切った際に前の馬が蹴り上げた砂が目に入り、視界不良になったことが敗因として挙げられている。


主な産駒

トウカイテイオー ツルマルツヨシ アイルトンシンボリ


後継種牡馬であるトウカイテイオーはGⅠ級勝ち馬を3頭出したものの、トウカイポイント騸馬ヤマニンシュクルは牝馬、ストロングブラッドは諸事情で種牡馬になれずと、なかなか後継を出すことができなかった。現在彼の後継種牡馬はクワイトファイン一頭だけである。

クワイトファインは地方競馬で142戦6勝という成績だが、父父シンボリルドルフに母父ミスターシービー(なので当然トウショウボーイの血も入っている)、母の母父がシンザンと、昭和の三冠馬3頭の血を引くというロマン溢れる血統のため、クラウドファウンティングにより種牡馬入りした経緯がある。

ヘロド系の競走馬は現在世界的にも貴重であり、日本でヘロド系の種牡馬は他にギンザグリングラス(メジロマックイーン産駒)しかいない。


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84世代 競馬 競走馬


ディープインパクトコントレイルデアリングタクト:シンボリルドルフ同様、無敗で三冠を達成。

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