1836年10月5日~1908年10月26日
江戸の幕臣の子として生まれる。幼名釜次郎。
昌平坂学問所で儒学・漢学、ジョン万次郎の私塾で英語を学び、樺太探検に赴いた後、オランダへ留学。近代西洋的な政治や軍事を学び、幕府海軍副総裁に就任。
大政奉還後、戊辰戦争で徳川慶喜とともに大阪から江戸へ敗走。江戸無血開城を不服として、幕府の軍艦8隻を率いて北海道へ逃走。新政府が任命した箱館府知事を追放して箱館の五稜郭を拠点とし、自ら総裁となって蝦夷島政府(いわゆる「蝦夷共和国」。ただし榎本自身は、別に日本からの「分離独立」を企てたわけではない)の樹立を宣言。土方歳三とともに新政府軍に抗戦するも敗北し降伏。
黒田清隆や福沢諭吉の助命で投獄で済まされた。出獄後に北海道開拓にあたり、間もなく外交官に転じる。初代外務大臣を務めた。
義理人情に厚く涙もろい典型的江戸っ子で、明治天皇は彼を気に入っていた。
国際法・農業・科学技術など多方面に通じ、軍事、外交、農商など各大臣を歴任した。郵便マークの「〒」を考えたのは逓信大臣だった頃の榎本ではないかとする説がある。東京農業大学の創設者でもある。
外国語に堪能な海外通だったが、明治政府が推進した欧化政策には批判的で、園遊会にはわざと和服で参列したりしている。