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カーネル・サンダースの編集履歴

2022-07-29 04:42:54 バージョン

カーネル・サンダース

かーねるさんだーす

Colonel Sanders=サンダース大佐。 一般にはケンタッキーフライドチキン創業者のハーランド・デーヴィッド・サンダースの事を指す。

カーネル・サンダース(Colonel Sanders)は、英語で「サンダース大佐」の意。

一般に、ケンタッキーフライドチキンの創業者として知られるハーランド・デーヴィッド・サンダースの事を指す。


概要(ハーランド・デーヴィッド・サンダース)

Harland David Sanders (1890~1980)


自分に特別な才能があったとは思えない。成功できた最大の要因は一所懸命に働いたことだ


アメリカ合衆国の実業家。ケンタッキーフライドチキンの店頭に等身大の人形が置いてあることで知られ、日本においては「カーネルおじさん」の愛称で知られる。


6歳で父親を亡くし、10歳から農場に働きに出て、学校は14歳でやめた。

幼い頃から母親に代わって家事手伝いをしていたことから料理が得意になり、子供の頃から働き続けたことで真面目に働くことの大切さを学び取った。これが彼の人生観を作り上げたと言っていいだろう。

15歳で市電の車掌となり、16歳で年齢を詐称して陸軍に入隊、キューバ内乱平定のため出兵したが内乱はデマで、翌年除隊した(一兵卒どまりであり、軍人として大佐になったわけではない)。若い頃は勤勉ながら気性の激しい人であったため、職場の上司と対立しては様々な仕事を転々とした。

  • 鉄道機関士 - 組合活動で目立ちすぎてクビに。
  • 弁護士 - 訴訟相手が裁判官と裏取引をしていたため敗訴。提訴し直し裁判に勝ったが仕事が来なくなり廃業。
  • 保険外交員 - トップセールスとなるも、仕事の事で上司と揉めて退職。
  • ガスランプ製造販売 - 電気が普及して倒産。全財産を失う。
  • タイヤ会社の営業 - 成績は常にトップだったが会社が倒産。

等々、優秀な功績を立てているにも関わらず終ぞ報われていない。

彼自身に非が無いケースも多いが、40以上の職業を転々としながらどれも長続きしなかった。勤め人として働くことに限界を感じたのか自ら経営者になることを決め、30代後半からケンタッキー州ニコラスビルでガソリンスタンドを経営する。

  • 朝5時から深夜2時まで営業。
  • サービスで車の窓を拭く。
  • ラジエターの水を無料でチェック。

等々、

時代の先を行くサービスが好評を呼び経営は絶好調だったが、1929年の世界大恐慌で農民に貸していたガソリン代が回収できなくなり、倒産し事業を売却した。


翌年移り住んだケンタッキー州コービンで再びガソリンスタンドとモーテルの経営を始め、敷地内にテーブル一つと椅子六つの小さなカフェレストラン「サンダース・カフェ」を併設した。

カフェは料理が得意なサンダースが自ら厨房に立って切り盛りしていたが、その味の良さからやがて大いに繁盛するようになり、サンダースはカフェの経営の方に注力するようになった。カフェのメニューの中でもフライドチキンは特に人気があり、サンダース自身も得意な料理であったことから、理想の味を求めて研究を重ねるようになった。

このフライドチキンはケンタッキー州の郷土料理にも選定され、1935年ケンタッキー州政府はサンダースに、フランス領時代からの由緒ある名誉称号「ケンタッキー・コロネル」を贈り、州の公の席では「カーネル・サンダース」と呼ばれる事となる。

1939年には現在に続くオリジナル・フライドチキンのレシピが完成するも、コービンの店が火事で全焼。1941年に再建され147人収容の大レストランとなった。


1952年、カフェに客として来たレストラン経営者ピート・ハーマンがオリジナル・フライドチキンを絶賛。サンダースが「そんなに良いのなら自分の店で売ってくれたらいいのに」と言ったことからユタ州の店でサンダースのレシピによるフライドチキンを売ることになる。

サンダースが視察に行ってみると、「ケンタッキーフライドチキン」の看板を立て、ラジオでCMをガンガン流して販売しており、サンダースはこの手法に大いに刺激を受けた。これが後にフランチャイズ事業を考案するヒントとなった。


1956年、ハイウェイ75号線がコービンの町を迂回したため店の前を車が通らなくなり、「サンダース・カフェ」は客足が途絶え売却する羽目になった。この挫折は苦難の連続であったサンダースの人生の中でも特にダメージの大きいものであり、負債を返済したあとはほぼ無一文になってしまった。

なにもかも失ったサンダースの元に残されていたのは、彼が試行錯誤して生み出したオリジナル・フライドチキンのレシピだけであった。そして、彼はコレを元手に最後の勝負に挑むことになった。

代理店でフライドチキンが1ピース売れる毎に5セントをもらうというフランチャイズ事業を考案し、北米中を日夜車で走り回って飛び込み営業を続け、1963年までに600店のフランチャイジーを得る。

1964年、フランチャイズ権を譲渡して引退。以後、ケンタッキーフライドチキンの広告塔として世界中を巡る。

1980年、死去。享年90歳。


カーネル人形

ケンタッキーフライドチキンの店頭には必ず彼の立像が置いてあるため、食べたことがない人でも彼の顔は知っているだろう。

この人形を店頭に置くという発想は、実は日本から始まった。


日本での展開当初、「何の店なのかわかりにくい」という指摘を受けており、中には店の色合いから理容店と間違えて入ってくる人もいた。

そんな折、日本法人の幹部がカナダへ視察に行った際、倉庫に保管されていたカーネル人形(何かのキャンペーンで使ったらしい)を発見。看板代わりに店頭に置くことを発案した。

以後、この人形はケンタッキーフライドチキンのシンボルとなり、日本国外にも広まりつつある。


なお、この人形は、カーネルが70歳の頃の姿を模したもの。

カーネル本人が人形を見たとき「君は年を取らなくていいな」と言ったとか。


etc.

  • 「彼の人生には、いつも油(脂)が乗っていた」などと冗談めかして言われることがあるが、上述の通り彼の人生は艱難辛苦の連続であった。商売の才能や先見の明には富んでいたが、それが報われることが少なく、地道な努力も幾度となく灰燼に帰した相当な苦労人であり、フランチャイズ事業で成功した時には既に70歳代であったため、大器晩成偉人としてよく名が挙げられる。
  • 「カーネル」は正しくは「ケンタッキー・コロネル」であり、ケンタッキー州に貢献した人物に与えられる名誉称号である。つまり、「カーネルさん」や「カーネルおじさん」と“カーネル”をファーストネームとして扱うような呼び方は「大佐おじさん」と呼んでいるようなもので、言葉として少々おかしい。余談ながら、ケンタッキー・カーネルの意味するところは「ケンタッキー州名誉大佐」。「サンダース名誉大佐」と呼ぶと非常に強そうに見えるから不思議である。なお、この称号は日本人も何人か授与されている。
  • 来日時には、日本KFC従業員のサービスや勤勉さに感動した。
  • フリーメイソンの会員。人形の胸にもバッジが付いている。
  • ゲーム「ファンタシースターポータブル2インフィニティ」ではパートナー・キャラクターとして参戦した。
  • pixivではドナルド・マクドナルドと並んでいじられる傾向にある。

カーネル・サンダースの呪い

日本における都市伝説のひとつ。詳細は当該記事を参照。


関連イラスト

こっちにおいでボウヤ

関連タグ

ケンタッキーフライドチキン KFC

表記揺れ:カーネルサンダース カーネルおじさん


安西先生(安西光義) - スラムダンクの主人公桜木花道らが所属する湘北高校バスケットボール部の監督。見た目が似ているだけで何の関係も無い。


沢田研二 - 「ジュリー」の愛称でも知られる歌手。2018年10月16日さいたまスーパーアリーナで開催予定だった自身のコンサートを突然キャンセルし、翌日にマスコミの囲み取材を受けていた際の彼の容姿が、服装も含めて余りにもカーネルと瓜二つだったと話題に。

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