概要
武内宿禰(孝元天皇の曾孫)の子孫の皇別氏族、姓は臣、後に石川朝臣と名乗る。
歴史
古墳時代
蘇我氏の始祖は武内宿禰の子蘇我石川から始まる。蘇我氏は大和朝廷では財政管理・外交を司っており渡来人との関わりが深かった。蘇我氏が力を上げていったのが欽明天皇朝の蘇我稲目である、稲目は大臣の肩書きを持ち娘堅塩媛と小姉君が天皇の妃であり堅塩媛は用明・推古天皇、小姉君は崇峻天皇の生母である。稲目は仏教公伝の際には崇仏派であり廃仏派の大連物部尾輿と対立した。稲目の死後、子の馬子が大臣を引き継ぎ、仏教論争で物部守屋と対立した。
争いは敏達・用明天皇朝まで続き、結果丁未の乱で守屋を滅ぼし、崇峻天皇を即位させるが後に暗殺している。
飛鳥時代(乙巳の変まで)
馬子は朝廷で権力を握り、孫の入鹿まで政務を牛耳る、馬子は推古天皇を擁立、厩戸皇子(聖徳太子)と共に政務を行いさらに飛鳥寺を建立した、馬子の死後に子の蝦夷が引き継ぎ推古天皇崩御後に敏達天皇の孫田村皇子を擁立(舒明天皇)、皇極天皇朝の頃に蝦夷の子入鹿は山背大兄王を滅ぼした、後に乙巳の変で中大兄皇子と中臣鎌足などの反蘇我氏によって入鹿・蝦夷は滅ぼされ蘇我氏本家は滅亡した。
飛鳥時代(大化の改新以降)
大化の改新によって蘇我氏の一族であり乙巳の変に関与した蘇我倉山田石川麻呂が右大臣となる。しかし謀叛の疑いをかけられ家族と共に自害した。石川麻呂の死後、一族の赤兄は左大臣となり天智・弘文天皇(大友皇子)の側近だったが壬申の乱で大海人皇子の軍に敗北し流刑となる。朱鳥元年(686年)に石川氏に改姓し姓は朝臣となる。
奈良時代から平安時代以降
奈良時代に入り石川石足は従三位・弁官・参議・大宰大弐となる。石足の子石川年足は藤原仲麻呂が権力を上げると同時に出世していき正三位、御史大夫となる。年足の子石川名足は中納言、石川真守は参議となる。平安時代以降は石川氏は公卿を輩出せず衰退していった。
蘇我氏の人物
皇室との関係
蘇我氏は稲目以降天皇や皇族の妃となり外戚関係を築いていた。