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成田長親の編集履歴

2013-05-19 23:13:17 バージョン

成田長親

なりたながちか

安土・桃山時代~江戸時代初期の武将

天文14年(1545年)~慶長17年(1612年)12月4日

後北条家に仕えた関東の戦国武将。家紋は「丸の内に三つ引き両」。


豊臣秀吉による小田原征伐に伴い、北条傘下であった忍城城主・成田氏長北条氏直氏政の命令により、小田原城に詰めていたため成田泰季(やすすえ)が城代となる。ところが、陣中で泰季が急死したため泰季の嫡男である長親が城代となる。


忍城戦では、大手行田口の大将であり二の丸に詰めていた。(本丸は氏長の妻とその継子である甲斐姫が詰めていた)行田口が危うくなった時加勢に向かおうとするも、甲斐姫に「大将が動いてはならぬ」と押しとどめられ、代わりに甲斐姫が甲冑を身にまとい出陣している。


『成田記』では軍議の席で開城か籠城かで正木丹波守利英と柴崎和泉守の意見が割れて喧嘩になりそうになったところを間に入って仲裁している。

この記述から作家の和田竜氏は長親を「猛将型」ではなく、「調整型」の人間と捉え、小説『のぼうの城』でのキャラクター作りに反映したという。

また『成田系図』では長親が石田堤を壊す計画を遂行したと書かれてあるが、堤が決壊した原因には諸説ある。


小田原城が降伏・開城したことにより忍城も7月7日(11日又は14日説も)に開城したが、開城の際に浅野長政(『のぼうの城』では長束正家のセリフとなっている)から「一騎につき一駄」という条件が付けられた。これは侍一騎に対し馬一頭に積める雑具しか持ち出してはならない、ということ。その条件に、これでは家族を養えないと反発して「我ら餓死より討死を選ぶ者」と長親は開城を拒否する。

これに驚いた石田三成と長政は秀吉に報告。秀吉も「城兵の言うことはもっともである。自由に道具類や財産の持ち出しを許してやれ」と指示。秀吉の使者がこれを伝えるために忍城に到着する。ところが長親は「秀吉の使いであるといえども、面会はせぬ」と使者を城へ入れなかった。驚いた使者は氏長の縁者も小田原から派遣し長親を説得。ようやく長親も城を開けた。


成田氏長と長親は、その後蒲生氏郷お預かりの身となり会津へ。その後秀吉の側室となった氏長の娘、甲斐姫の尽力により氏長が下野烏山に3万7千石(2万石の説も)を与えられ、それに伴い長親も烏山に移る。しかしその後氏長より忍城籠城時に豊臣方への内通が疑われ氏長と不和となる。長親は出奔。尾張国・大須に行き剃髪し「自永斎」と称する。子孫は代々徳川家や松平家に仕えたという。


今でも大須の大光院には彼の墓がある。

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