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G.91の編集履歴2019/01/28 20:10:44 版
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G.91

じーきゅういち

1953年のNATO軍事基礎要件第1号「軽量打撃戦闘機計画」に対する、イタリアのフィアット社による回答がこれ。 同じく試作された数種の中でも性能は良かったが、フランス・イギリスなどは自国製戦闘機に拘ったため、採用はイタリア・西ドイツ・ポルトガルに留まった。

初めての「戦訓」

ルーズベルト大統領はソビエトを大いに見誤っていた。

彼は前任者たちと違って国際共産主義運動の本質を見抜けず、ソビエトを国家として承認してしまったからである。

また、世界に共産主義革命が広がり続けていったらどうなるか。

いつかはアメリカでさえ共産主義革命が起こり、現状の民主制を焼き捨てて自分達「支配階級」を放逐するのではないか。

彼はそういった部分には考えが至らず、ただソビエトを公然と支持するのであった。

一方ソビエト(ロシア)は帝国時代から、冬でも流氷に閉ざされない不凍港が悲願の的であり、「偏執狂」とさえ呼ばれたスターリンの万人に対する人間不信と合わさって、このさい領土に取れそうな土地は全て我が物として取り尽くす意図で満ちていた。

このように、アメリカとソビエトは「同じ連合国として在り」ながらも、実態は反全体主義を同じく旗印とするにはかけ離れ過ぎていた。第一、社会主義も共産主義も、手段の実態として同様ではないか。今現在対抗せんとする全体主義と、今現在手を組む共産主義と、いったい何が違うというのか。大悪魔ヒトラーを倒すためなら何でもいいのか。黄色い侵略者を倒すためには矛盾など気にしないのか。

こうした齟齬は大戦中すでに片鱗を見せていて、ヤルタ会談ではスターリンの意図を見て取ったチャーチルが調印を拒否する事態にまでなった。しかしルーズベルトは約束した。ドイツの半分から全てをくれてやると。結局ポーランドはソビエトに喰われ、アメリカ・イギリスに味方する者たちは44年のワルシャワ蜂起で見殺しにされた。「大戦争」後に自立したはずだったバルト三国もソビエトになった。

おそらく、ルーズベルトはあれほど敵意を燃やした日本に何を言ったのか、自分で忘れてしまっていたに違いない。ポーランドやリトアニア・ラトビア・エストニアにとっては、ソビエトが侵略者になったのだから。共産主義もまた「疫病」であり、いつかはアメリカも蝕まれるのは明らかだったのに。

第二次世界大戦後の世界では、こうして戦勝国のワガママが新たな戦争の火種を作っていたのである。

時にして1945年。

アメリカが「自由」を口にするにしては肌の色の事を忘れ、ソビエトが「平等」を口にするには強大にすぎる権力者を頂く時代であった。

NBMR(NATO Basic Military Requirement)

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