G.91
じーきゅういち
第二次世界大戦に勝利した連合国だったが、戦後はそれぞれの政治・経済による利権で意見が割れ、再び世界を東西二つに割る事態になってしまった。そうした影響は極東にも及んでおり、朝鮮半島は誰のものかを巡って米ソ中が対立していた。
初期はソビエトの支援を受けた北朝鮮が優勢で、続いてアメリカが介入した南朝鮮が優勢となった。最終的には中国が介入して再び38度線を挟んだ膠着状態となり、中ソ対立もあって終戦となるはずが南朝鮮の反対により停戦に留まるなど、政治的にも大きな「しこり」を残す結果となってしまった。
煮え切らないものがあったのは前線も同じことで、日本やドイツでの戦いでは、常に航空優勢を確保して敵を撃破した戦訓が全く役に立たなかった。出来なかったのである。そうなると戦いは歩兵同士の白兵戦が重要になり、今度は楽勝ムードの新兵には荷が重かった。
しかし対する北朝鮮空軍の活動は、中朝国境沿いの一部こそ「ミグ回廊」と呼ばれて恐れられたものの、概して低調で、それ以外での空中戦はあまり起こらなかった。空軍力では圧倒的なのに、地上では勝利できない。常に航空支援でもって戦場の優勢を保ち、勝利してきたアメリカなど国連軍に、このザマは看過できなかった。
なぜ勝利できないのか。
航空支援がないからだ。
なぜ航空支援がないのか。
必要な時に来られないからだ。
ならば何時でも来れる戦闘機を作ればよい。どこでも発着できる戦闘機が必要である。
朝鮮戦争停戦後、国連軍に参加した諸国では航空機からの対地直協を見直し、新たなジェット軽攻撃機を模索していた。1949年にはソビエトも核開発に成功し、核戦争の危機も高まっていた。
そこで1953年12月、NATO最高司令部は軽戦術支援機の要件を発表。これは戦場近くから発進し、対地直協を行う襲撃機の要件となった。また、来る(であろう)核戦争も踏まえ、空軍が複雑・高価な戦闘機を空港に常駐させたのでは、核戦争勃発時に攻撃され易すぎる上に被害も大きくなると指摘し、臨時飛行場(アウトバーンなど)から発着できて、且つ地上施設も最低限で済む軽量戦闘機の開発を提案した。
小規模の分散配備では簡単に撃破されてしまいそうなものだが、冬戦争では飛行場を離れて分散配備した戦闘機隊が大きな戦果を挙げ、真珠湾でも2機だけ飛行場から離れて配備された戦闘機が大活躍していた。分散配備もそこそこ実績があったのである。
要求仕様は以下のとおり。
・離陸滑走距離は1100m以内で、かつ滑走路末端時点で15mの障害物を飛び越えられる。
・草原や道路からでも作戦可能
・最大速度はマッハ0.95
・戦闘行動半径は280kmで、目標上空には10分程度留まるものとする。
・コクピットと燃料タンクには防御装甲を施す。
・固定武装は12.7mm機銃4連装か、20mmか30mm機銃の連装。
この仕様では当然大きなエンジンを使うわけにはいかないが、ちょうどいいことにブリストル・シドレー「オーフュース」があった。当然、このエンジンも開発にはアメリカからの資金が入っている等、NATOにとっては息のかかった品であった。
この提案をうけてフランスやイタリア、アメリカの各メーカーが設計案を持ち寄った。
以下のような設計案は、航空力学の権威セオドア・フォン・カルマン氏率いるAGARD(航空宇宙調査開発諮問機関)にて審査を受けることになった。
・フィアット G.91
・アエルフェール「サジッタリオ2」
・ブレゲー Br.1001「タオン」
・シュド・エスト「バルデュール」
(なお、本計画の影響を受けてイギリスではフォーランド「ナット」が開発されたが、審査には参加せず)
これら審査は1953年3月から18か月をかけて行われ、一次審査の結果は1955年3月30日に発表される。この中でブレゲー案・ダッソー案、そして本機フィアット案を実際に制作し、性能で評価しようということになった。そして実機テストの結果、本機G.91が最も優秀であるということになり、見事NBMR-1の勝者となった。
フィアットG.91は、F-86(とくにD型系統)に良く似た形態をしていたが、それはフィアット社がF-86Kのライセンス生産を行っていたから当然の事で、わが日本でも富士T-1が同様の事情でF-86に通じる形態(と言っても「パッと見で似てる気がする」程度だが)だった。
しかしF-86よりも大幅に軽量なおかげで運動性はよく、非力なエンジンだったとはいえ要求仕様は十分に満たせる性能だった。とくに運動性は空軍の曲技飛行隊でも採用されるほどで、操縦も易しく、当のイタリア人たちは型番のGから「ジーナ(ちゃん)」と呼んで親しんだ。
失敗のジーナ
だが、この機がNATO諸国一般に普及する、という事は無かった。
というのも、同様の戦闘機ではN-156改めF-5の方が性能は良かったからだ。
しかもこちらは(一応は)いっぱしの超音速戦闘機であり、同じく配備するにしても、こちらのほうがよほど「箔」がついた。その上、N-156は最初から海外軍事支援用なのを背景に生産もどんどん進められ、世界中にあれよあれよという間に普及していった。
結果、G.91が普及するより早くN-156は浸透してゆき、顧客を奪ってしまう。
G.91は開発国のイタリア、最初から決めていたドイツ、その中古品を引き取ったポルトガル位にしか採用されず、競争試作の勝者にしてはささやかな成功しか納められなかった。
設計
G.91は低圧タイヤと不整地に備えた頑丈な機体構造を組み合わせるなど、あえて離発着性能に重点を置いている。機首は原型(F-86K)と比べて小さくなったためレーダーは搭載しない(そもそも要求されてもいない)が、対地偵察用のカメラを3台搭載した。
防弾性能は要求仕様どおりで、G.91では胴体中央部までを防弾装甲で囲みこみ、そこへ7つに分割された燃料タンクとコクピットを収めて実現した。とくにコクピットでは左右側面と底面、そして風防ガラス前面が防弾仕様になっていて、高射砲の砲弾片や小銃弾に備えている。射出座席はイギリスのマーチンベーカー社製のもの。
主翼は37度の後退角に、離着陸性能を最大とするべくダブルスロッテッドフラップ(二重隙間フラップ)を備え、エルロンも油圧式操舵を採用。尾翼は人工感覚装置つき昇降舵を備える。垂直尾翼付け根にはドラッグシュート収容部も設置された。
サイズ
機の大きさは長さ10.3m・幅8.56mで、これがF-5なら14.45mと8.13m、MiG-17だと11.3mと9.6mとなり、比較的小柄な両機種よりも更に一回り小さい。空虚重量は3100kgで、F-5が5000kg程。同時期の東側の戦闘機としてMiG-17を例に取ると、こちらも4200kg程だから、やはりG.91は軽量に作られている。
エンジン
ブリストル・シドレー「オーフュース」803(出力:22.2kN)を単発式で備える。
F-5ではJ85エンジン(ドライ:15.5kN、アフターバーナー:22.2kN)を2基、MiG-17ではクリモフVK-1(ドライ:26.5kN、アフターバーナー:33.8kN)の単発式となっている。
主力対重量比は0.42となり、G.91は出力面での余裕が少ないが、これは上昇力に大きな影響がある。MiG-17では12800ft/Min、F-5に至っては34400ft/Minにも至るが、G.91では6000ft/Minと、あまりよろしくない数字に留まる。また、当然ながら搭載力にも関わってくるが、こちらも良くはない。
イタリア
1958年秋より「軽戦術戦闘飛行隊」として配備がはじまり、初期の生産機をもって最初の要員育成が始まった。この頃は初期のドイツ軍パイロット養成もこの飛行隊で行っている。
1964年までには実戦型のG.91R/1へ入れ替えられ、1995年に最後の飛行隊が解散となるまで活躍した。イタリアではSTOL性能の高さをはじめ、性能が目的によく合致していたようで、後継のAMXも同様の要求で開発されることになる。
ドイツ
1960年9月からドイツ空軍向けR/3の受領が始まり、1961年7月にはドルニエ社で国産された機が初飛行した。
G.91R/3はF-84と入れ替わりに新設された軽攻撃飛行隊4個に配備され、また複座練習機型も配備されるようになった。これも後にドルニエ社で生産されるようになり、一部はF-4後席員の訓練にも使われている。
ギリシャ・トルコ向けのG.91R/4が発注取りやめになった後、これもドイツ空軍で運用された。しかしドイツ空軍での運用には適さないと見なされ、練習用として使われた後、1966年には全てが退役してしまった。このうち残存していた内の40機はその後ポルトガルへ売却される事になる。この後、スクラップにしたほかは整備教育用機材やモニュメントとして活用された。
1970年初頭には、ドイツ空軍は310機のR/3と40機のT/4を保有するに至った。
本当は更に必要とされていたのだが、実際に運用したところでは性能に不満があり、それ以上の発注は控えられることとなった。何せ1tに満たない搭載力と、空載状態でもなお貧弱な上昇力では、扱うにも用途が限られており、現場ではその余りの使いでの無さを『ブタ』と呼んで皮肉った。
1980年代初期には後継のダッソー・ドルニエ「アルファジェット」への入れ替えが始まり、1982年には最後の機が退役している。
ポルトガル
ポルトガルは第二次世界大戦を中立国として切り抜けており、本来はソビエトの伸長などには係わりのない関係である。しかし、大戦終結後からアンゴラ・モザンビーク・ギニアビサウといったアフリカ大陸におけるポルトガル植民地では独立運動が激しくなっていて、これに共産陣営の後押しが加わってからは激しさが増すばかりだった。
1961年、ポルトガル空軍はアンゴラにF-86を差し向けて対処しようとするが、アンゴラ人民同盟はアメリカが支援していたため、これを取りやめるよう、禁輸制裁も含む圧力が国連を通じてかけられた。しかしサラザール首相はこれを拒否。植民地戦争へのあからさまな肩入れを続けるアメリカが次に打った手は、ポルトガル国内での政変(クーデター)の後押しであった。しかしサラザール首相はこれを鎮圧し、圧力に屈するどころか軍を増派した。
1965年、戦争はさらに激しさを増していた。
ポルトガルは西ドイツから中古のカナデア・セイバーMk.6を100機導入しようとしていたが、ドイツ空軍ではちょうどG.91R/4を退役させている頃だった。F-86(といってもカナダ製だが)ではアメリカが部品を一切売らない等の嫌がらせも有り兼ねないから、一切関わっていないG.91をとりあえず40機導入することにした。
ポルトガル空軍のG.91は1966年からギニアビサウ独立戦争に投入され、ロケット弾や爆弾で対地支援にあたった。独立軍は航空兵力を持たなかった為にG.91の天下かと思われたが、1973年からはソ連製のSA-7「ストレラ」MANPADSが投入されるようになり、これは直ちに脅威となった。この年の3月25日・28日にはG.91がそれぞれ1機撃墜されている。この後も損害は続き、1974年1月31日に最後の機が撃墜されるまで続いた。
1968年末からは502飛行隊「ジャガー」が初めてモザンビークのベイラに展開した。
1970年9月には2番目に派遣された702飛行隊「スコーピオン」共々テテに移動し、モザンビーク解放戦線に対して出撃を繰り返した。1973年には解放戦線側にSA-7(および中国製コピーのHN-5)が到着し、これも脅威となった。しかしポルトガル側は戦法を変えて対抗し、戦争中に撃墜された機は無かった。失われた機は投下爆弾の起爆が早すぎ、そのアオリで墜落したもののみである(搭乗員は戦死)。
1973年にはアメリカによる武器禁輸により、G.91の予備部品は危機水準にまで陥る。
これにより稼働も危ぶまれる事態になり、軍部は部品の調達に躍起になった。様々な試みが試され、中にはドルニエ社がG.91を分解した「機械部品」をスイスやスペインの商社に売却し、これをポルトガルが買い取るという手段も提案された。(この計画は当のドルニエ社に拒否されて成立せず)
1974年、軍部が独裁者に反旗を翻して「カーネーション革命」が起こり、ポルトガルの独裁体制は終わりを告げた。新政府は独立運動を支持し、アフリカ植民地からの撤退を決定。G.91も多くが本国へ引き揚げられることになった。最後の飛行隊も、アンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)とアンゴラ民族解放戦線(FNLA)間の抗争を引き留めるべく活動を続けていたが、1975年1月には本国へ撤退した。
その後は禁輸政策も解除され、ドイツから新たに14機のG.91R/3、7機のT/3を購入し、部品取り用も含めればR/3(70機)とT/3(26機)が導入され、最終的には1993年に最後の1機が退役した。ドイツからの「お下がり」だったG.91の後継は、やはりドイツのお下がりで、統一後にお役御免となったアルファジェットを引き取って運用している。
いくら離発着性能には優れていても、肝心の能力が低くては使いどころに恵まれなかった。これには1960年代、陸軍にはヘリコプターの配備が始まっていた事も大きい。各国ではヘリコプターの配備が瞬く間に進み、用途も拡大していった。
というわけでUH-1やMi-8といった汎用ヘリコプター、AH-1やMi-24のような戦闘ヘリコプターの方が普及してしまった。
離着陸性能ではヘリコプターには敵わなかったのである。
そういう訳で、陸軍向けの航空戦力にはヘリコプターが据わり、STOL性能に優れているだけで後が中途半端なG.91は、広範な支持を取り付けるに至らなかった。「戦場近くから発着できる」という要件を便利に叶えられるなら、そりゃもうヘリコプターの独擅場であった。
しかしG.91開発で主な要件となったSTOL性能は、続くトーネードでも重視される事になり「STOL性能に優れた戦闘機」までが不要にはならなかった。エンジン・空力も発展し、より高い水準で戦闘能力・離着陸能力をバランスできるようになったのである。果たしてG.91が強い戦闘機だったのか、というと疑問符は免れないが、発展史上ではそれでもひとかどの位置を占める戦闘機なのである。