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G.91

じーきゅういち

1953年のNATO軍事基礎要件第1号「軽量打撃戦闘機計画」に対する、イタリアのフィアット社による回答がこれ。 同じく試作された数種の中でも性能は良かったが、フランス・イギリスなどは自国製戦闘機に拘ったため、採用はイタリア・西ドイツ・ポルトガルに留まった。
目次[非表示]

ジーナ誕生前史

大戦終結まで

ルーズベルト大統領はソビエトを大いに見誤っていた。彼は前任者たちと違って国際共産主義運動の本質を見抜けず、ソビエトを国家として承認してしまったからである。

また、世界に共産主義革命が広がり続けていったらどうなるか。
いつかはアメリカでさえ共産主義革命が起こり、現状の民主制を焼き捨てて自分達「支配階級」を放逐するのではないか。彼はそういった部分には考えが至らず、ただソビエトを公然と支持し続けるのであった。

一方ソビエト(ロシア)は帝国時代から、冬でも流氷に閉ざされない不凍港が悲願の的であり、「偏執狂」とさえ呼ばれたスターリンの万人に対する人間不信と合わさって、このさい領土に取れそうな土地は全て我が物として取り尽くす意図で満ちていた。

このように、アメリカとソビエトは同じ「連合国」として在り」ながらも、実態は反全体主義を同じく旗印とするにしてはかけ離れ過ぎていた。第一、全体主義も共産主義も、手段の実態として同様ではないか。今現在対抗せんとする全体主義と、今現在手を組む共産主義と、いったい何が違うというのか。大悪魔ヒトラーを倒すためなら何でもいいのか。黄色い侵略者を倒すためには矛盾など気にしないのか。

こうした齟齬は大戦中すでに片鱗を見せていて、ヤルタ会談ではスターリンの意図を見抜いたチャーチルが、調印を拒否する事態にまでなった。しかしルーズベルトは約束した。ドイツの半分から全てをくれてやると。結局ポーランドはソビエトに喰われ、アメリカ・イギリスに味方する者たちは44年のワルシャワ蜂起で見殺しにされた。第一次世界大戦後に自立したはずだったバルト三国もソビエトになった。

おそらく、ルーズベルトはあれほど敵意を燃やした日本に何を言ったのか、自分で忘れてしまっていたに違いない。ポーランドやリトアニア・ラトビア・エストニアにとっては、ソビエトが侵略者になったのだから。全体主義をそう呼んだように共産主義もまた「疫病」であり、いつかはアメリカも蝕まれるのは明らかだったにも拘わらず。しかも無邪気なことに、ルーズベルトの周囲はいつしか共産党シンパだらけになっていた。

第二次世界大戦後は、こうして戦勝国のワガママ放題が新たな戦争の火種を作っていた。
時にして1945年。アメリカが「自由」を口にするにしては肌の色を忘れ、ソビエトが「平等」を口にするには強大すぎる権力者を頂く時代であった。

終結後

世界大戦は(いちおう)連合軍勝利で終結したが、これは全体主義・資本主義・共産主義からなる三つ巴の戦いを、内二つに絞っただけだった。もとより全体主義を倒すためだけに共産主義と手を組んでいたのが資本主義だから、目的が消えてしまえば元の対立関係に収まるのは当然であった。

要するに、元々アメリカとソビエトは不倶戴天の敵だったのだ。
不協和音はすぐに鳴りはじめた。朝鮮半島の統治に関する事項である。
ソビエトはこれ幸いに朝鮮半島の全てを頂くつもりでいたが、トルーマン(ルーズベルトの急死により大統領へ昇任した)はソビエトの伸長を警戒する反共主義者だったため、急遽北半分だけが与えられるに留まる、はずであった。

いっぽう半島内では、支配者が倒されたときにはよくある事だったが、そのどちらを支持するかで民衆は二派に分かれた。しかもそれは南北政府だけに限らず、他にも様々な意見の対立から民衆間に多数の徒党に分かれて大小の紛争が同時多発し、またインフラを整備していた日本人が一斉に去ったことで洪水や疫病、飢饉にも襲われるようになった。こうしてさらに社会不安は増大し、また統治の方針をめぐって南北政府背後の米ソの対立も激しくなっていった。

1950年、朝鮮戦争勃発。
こうして「連合軍の平和」は、わずか5年足らずの命に終わった。

初めての「戦訓」

こうしてなし崩しに勃発した朝鮮戦争であるが、この戦争は国連軍(=アメリカ陣営)に与えたものは大きかった。

まずは今まで直接経験することの無かった、共産主義陣営の主な戦術に触れたこと。
朝鮮半島では大規模な戦車部隊の投入は難しかった。そこで戦力は歩兵を主体とし、移動や攻撃も国連軍の目を盗んで夜間とした。共産陣営の得意は白ロシアの大平原を戦車で蹂躙するイメージが強かったが、そればかりではない。むしろ膨大な歩兵による面単位の制圧力が本領だといえた。

特に夜の闇に乗じた銃剣突撃日本軍と同様に多用され、また当時は技術的にも夜間の航空支援が出来なかった事から、国連軍はとうとう押し切られて瓦解する事例も出た。この前まで一介の小市民だったような者たちが、夜いきなり銃剣で串刺しにされる危険に直面させられたり、銃剣突撃のない晩でも安眠妨害の空襲があったりした訳だから、早々に神経が参ってしまって厭戦気分に取りつかれてしまうのも無理はなかった。

また二つ目は第二次世界大戦と同様に、戦場上空の航空優勢は常に国連軍の側にあったのに、これが地上軍の優勢に繋がらなかった事である。北朝鮮空軍の活動は概して低調で、MiG-15の脅威こそあったものの、それが発揮されたのは中朝国境沿いの一部地域でしかなかった。

にも拘わらず、空軍はどうして地上軍が優位になるよう活動できなかったのか。
北朝鮮空軍が手強かった訳ではない。ただ必要な時に来られなかったのだ。
この議題は休戦後のNATOでさっそく検討の的にあがった。

NBMR(NATO Basic Military Requirement)第1号

NATO軍事基礎要件。
これはNATO諸国で軍事規格を統一し、整備や補給を行いやすくするために設けられたものだ。
当然、規格を統一するということは新型の装置を作るということであり、要するに兵器の共同開発事業であった。

1953年12月、NATO最高司令部は、空軍が複雑・高価な戦闘機を空港に常駐させたのでは、核戦争勃発時に攻撃され易すぎる上に被害も大きくなると指摘し、臨時飛行場(アウトバーンなど)から発着できて、且つ地上施設も最低限で済む軽量戦闘機の開発を提案した。

要求仕様は以下のとおり。
・離陸滑走距離は1100m以内で、かつ滑走路末端時点で15mの障害物を飛び越えられる。
・草原や道路からでも作戦可能
・最大速度はマッハ0.95
・戦闘行動半径は280kmで、目標上空には10分程度留まるものとする。
・コクピットと燃料タンクには防御装甲を施す。
・固定武装は12.7mm機銃4連装か、20mmか30mm機銃の連装。

この仕様では当然大きなエンジンを使うわけにはいかないが、ちょうどいいことにブリストル・シドレー「オーフュース」があった。当然、このエンジンも開発にはアメリカからの資金が入っている等、NATOにとっては息のかかった品であった。

この提案をうけてフランスやイタリア、アメリカの各メーカーが設計案を持ち寄った。
以下のような設計案は、航空力学の権威セオドア・フォン・カルマン氏率いるAGARD(航空宇宙調査開発諮問機関)にて審査を受けることになった。

・フィアット G.91
・アエルフェール「サジッタリオ2」
・ブレゲー Br.1001「タオン」
ダッソー「エタンダールⅥ」
・シュド・エスト「バルデュール」
ノースロップ N-156
(なお、本計画の影響を受けてイギリスではフォーランド「ナット」が開発されたが、審査には参加せず)

これら審査は1953年3月から18か月をかけて行われ、一次審査の結果は1955年3月30日に発表される。この中でブレゲー案・ダッソー案、そして本機フィアット案を実際に制作し、性能で評価しようということになった。そして実機テストの結果、本機G.91が最も優秀であるということになり、見事NBMR-1の勝者となった。

フィアットG.91は、F-86(とくにD型系統)に良く似た形態をしていたが、それはフィアット社がF-86Kのライセンス生産を行っていたから当然の事で、わが日本でも富士T-1が同様の事情でF-86に通じる形態(と言っても「パッと見で似てる気がする」程度だが)だった。

しかしF-86よりも大幅に軽量なおかげで運動性はよく、非力なエンジンだったとはいえ要求仕様は十分に満たせる性能だった。とくに運動性は空軍の曲技飛行隊でも採用されるほどで、操縦も易しく、当のイタリア人たちは型番のGから「ジーナ(ちゃん)」と呼んで親しんだ。

失敗のジーナ

だが、この機がNATO諸国一般に普及する、という事は無かった。

というのも、同様の戦闘機ではN-156改めF-5の方が性能は良かったからだ。
しかもこちらは(一応は)いっぱしの超音速戦闘機であり、同じく配備するにしても、こちらのほうがよほど「箔」がついた。その上、N-156は最初から海外軍事支援用なのを背景に生産もどんどん進められ、世界中にあれよあれよという間に普及していった。

結果、G.91が普及するより早くN-156は浸透してゆき、顧客を奪ってしまう。
G.91は開発国のイタリア、最初から決めていたドイツ、その中古品を引き取ったポルトガル位にしか採用されず、競争試作の勝者にしてはささやかな成功しか納められなかった。

G.91とは

目的

戦場近くから発進し、地上部隊と連携して航空支援に当たるという開発目的は、山がちで空港を設置しにくかった朝鮮半島での戦訓を元にしたものである。また戦争の危険が増すと空港を離れ、道路や平原に分散配備して活動し続けるという構想は、冬戦争におけるフィンランド空軍にも範をとったものだろう。

各種MiG戦闘機も、比較的短距離の飛行場(こちらも道路・草原などを想定)からの出撃を想定して設計されているが、このG.91はそうした「戦場戦闘機」としての運用にも近いものと考えられる。

設計

そのため、G.91は低圧タイヤと不整地に備えた頑丈な機体構造を組み合わせるなど、あえて離発着性能に重点を置いている。機首は原型(F-86K)と比べて小さくなったためレーダーは搭載しない(そもそも要求されてもいない)が、対地偵察用のカメラを3台搭載した。

防弾性能は要求仕様どおりで、G.91では胴体中央部までを防弾装甲で囲みこみ、そこへ7つに分割された燃料タンクとコクピットを収めて実現した。とくにコクピットでは左右側面と底面、そして風防ガラス前面が防弾仕様になっていて、高射砲の砲弾片や小銃弾に備えている。射出座席はイギリスのマーチンベーカー社製のもの。

主翼は37度の後退角に、離着陸性能を最大とするべくダブルスロッテッドフラップ(二重隙間フラップ)を備え、エルロンも油圧式操舵を採用。尾翼は人工感覚装置つき昇降舵を備える。垂直尾翼付け根にはドラッグシュート収容部も設置された。

サイズ

機の大きさは長さ10.3m・幅8.56mで、これがF-5なら14.45mと8.13m、MiG-17だと11.3mと9.6mとなり、比較的小柄な両機種よりも更に一回り小さい。空虚重量は3100kgで、F-5が5000kg程。同時期の東側の戦闘機としてMiG-17を例に取ると、こちらも4200kg程だから、やはりG.91は軽量に作られている。

エンジン

ブリストル・シドレー「オーフュース」803(出力:22.2kN)を単発式で備える。
F-5ではJ85エンジン(ドライ:15.5kN、アフターバーナー:22.2kN)を2基、MiG-17ではクリモフVK-1(ドライ:26.5kN、アフターバーナー:33.8kN)の単発式となっている。

主力対重量比は0.42となり、G.91は出力面での余裕が少ないが、これは上昇力に大きな影響がある。MiG-17では12800ft/Min、F-5に至っては34400ft/Minにも至るが、G.91では6000ft/Minと、あまりよろしくない数字に留まる。また、当然ながら搭載力にも関わってくるが、こちらも良くはない。

武装

固定武装にはアメリカ製の12.7mmブローニングM3機銃を4挺(各300発)か、フランス製30mmリボルバーカノンDEFA(各120発)を2挺備える。

他には各種爆弾やロケット弾、増加燃料タンクなどを機外に搭載できる。このためのハードポイントは主翼に4か所設けられているが、軽量設計の代償に搭載力は合計700kg足らずに留まり、攻撃力は本当に「軽」といったところである。

運用について

イタリア

1958年秋より「軽戦術戦闘飛行隊」として配備がはじまり、初期の生産機をもって最初の要員育成が始まった。この頃は初期のドイツ軍パイロット養成もこの飛行隊で行っている。

1964年までには実戦型のG.91R/1へ入れ替えられ、1995年に最後の飛行隊が解散となるまで活躍した。イタリアではSTOL性能の高さをはじめ、性能が目的によく合致していたようで、後継のAMXも同様の要求で開発されることになる。

ドイツ

1960年9月からドイツ空軍向けR/3の受領が始まり、1961年7月にはドルニエ社で国産された機が初飛行した。

G.91R/3はF-84と入れ替わりに新設された軽攻撃飛行隊4個に配備され、また複座練習機型も配備されるようになった。これも後にドルニエ社で生産されるようになり、一部はF-4後席員の訓練にも使われている。

ギリシャ・トルコ向けのG.91R/4が発注取りやめになった後、これもドイツ空軍で運用された。しかしドイツ空軍での運用には適さないと見なされ、練習用として使われた後、1966年には全てが退役してしまった。このうち残存していた内の40機はその後ポルトガルへ売却される事になる。この後、スクラップにしたほかは整備教育用機材やモニュメントとして活用された。

1970年初頭には、ドイツ空軍は310機のR/3と40機のT/4を保有するに至った。
本当は更に必要とされていたのだが、実際に運用したところでは性能に不満があり、それ以上の発注は控えられることとなった。何せ1tに満たない搭載力と、空載状態でもなお貧弱な上昇力では、扱うにも用途が限られており、現場ではその余りの使いでの無さを『ブタ』と呼んで皮肉った。

1980年代初期には後継のダッソー・ドルニエ「アルファジェット」への入れ替えが始まり、1982年には最後の機が退役している。

ポルトガル

ポルトガルは第二次世界大戦を中立国として切り抜けており、本来はソビエトの伸長などには係わりのない関係である。しかし、大戦終結後からアンゴラモザンビークギニアビサウといったアフリカ大陸におけるポルトガル植民地では独立運動が激しくなっていて、これに共産陣営の後押しが加わってからは激しさが増すばかりだった。

1961年、ポルトガル空軍はアンゴラにF-86を差し向けて対処しようとするが、アンゴラ人民同盟はアメリカが支援していたため、これを取りやめるよう、禁輸制裁も含む圧力が国連を通じてかけられた。しかしサラザール首相はこれを拒否。植民地戦争へのあからさまな肩入れを続けるアメリカが次に打った手は、ポルトガル国内での政変(クーデター)の後押しであった。しかしサラザール首相はこれを鎮圧し、圧力に屈するどころか軍を増派した。

1965年、戦争はさらに激しさを増していた。
ポルトガルは西ドイツから中古のカナデア・セイバーMk.6を100機導入しようとしていたが、ドイツ空軍ではちょうどG.91R/4を退役させている頃だった。F-86(といってもカナダ製だが)ではアメリカが部品を一切売らない等の嫌がらせも有り兼ねないから、一切関わっていないG.91をとりあえず40機導入することにした。

ポルトガル空軍のG.91は1966年からギニアビサウ独立戦争に投入され、ロケット弾爆弾で対地支援にあたった。独立軍は航空兵力を持たなかった為にG.91の天下かと思われたが、1973年からはソ連製のSA-7「ストレラ」MANPADSが投入されるようになり、これは直ちに脅威となった。この年の3月25日・28日にはG.91がそれぞれ1機撃墜されている。この後も損害は続き、1974年1月31日に最後の機が撃墜されるまで続いた。

1968年末からは502飛行隊「ジャガー」が初めてモザンビークのベイラに展開した。
1970年9月には2番目に派遣された702飛行隊「スコーピオン」共々テテに移動し、モザンビーク解放戦線に対して出撃を繰り返した。1973年には解放戦線側にSA-7(および中国製コピーのHN-5)が到着し、これも脅威となった。しかしポルトガル側は戦法を変えて対抗し、戦争中に撃墜された機は無かった。失われた機は投下爆弾の起爆が早すぎ、そのアオリで墜落したもののみである(搭乗員は戦死)。

1973年にはアメリカによる武器禁輸により、G.91の予備部品は危機水準にまで陥る。
これにより稼働も危ぶまれる事態になり、軍部は部品の調達に躍起になった。様々な試みが試され、中にはドルニエ社がG.91を分解した「機械部品」をスイスやスペインの商社に売却し、これをポルトガルが買い取るという手段も提案された。(この計画は当のドルニエ社に拒否されて成立せず)

1974年、軍部が独裁者に反旗を翻して「カーネーション革命」が起こり、ポルトガルの独裁体制は終わりを告げた。新政府は独立運動を支持し、アフリカ植民地からの撤退を決定。G.91も多くが本国へ引き揚げられることになった。最後の飛行隊も、アンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)とアンゴラ民族解放戦線(FNLA)間の抗争を引き留めるべく活動を続けていたが、1975年1月には本国へ撤退した。

その後は禁輸政策も解除され、ドイツから新たに14機のG.91R/3、7機のT/3を購入し、部品取り用も含めればR/3(70機)とT/3(26機)が導入され、最終的には1993年に最後の1機が退役した。ドイツからの「お下がり」だったG.91の後継は、やはりドイツのお下がりで、統一後にお役御免となったアルファジェットを引き取って運用している。

主な派生型

G.91

試作機、および先行生産型。
運用初期には練習機としても使われた。

G.91R/1

イタリア空軍向けの対地攻撃・偵察を主とする型。対地攻撃力よりも、どちらかといえば「戦場戦闘機」としての運用が構想されていたようで、対航空用に優れる12.7㎜機銃4挺装備。

G.91R/3

ドイツ空軍向け対地攻撃・偵察用の、主に近接航空支援を得意とする襲撃機型で、こちらは対地攻撃力を重視して30mm機銃DEFAを2挺装備。

G.91R/3SATS

滑走路が使えない事態に備え、JATOロケットブースターと着陸制動フックを装備した実験機。1機のみ改造。

G.91R/4

ギリシャ・トルコ向けで12.7mm機銃4挺装備。発注取りやめになった後、ドイツ空軍で引き取る。その後40機がポルトガルへ売却された。この型だけはすべての採用国を渡り歩いている。

G.91PAN

G.91初期生産機をイタリア空軍曲技飛行隊「フレッチェ・トリコローリ(「三色の矢」の意。この場合はイタリア国旗の緑・白・赤を指す)」向けに改造したもの。

G.91Y

エンジンをJ85の双発とし、機体も大型化した発展型。
性能は向上したが、今度は「F-5と同じエンジンで性能は下」とハッキリ比較されるようになり、海外への売り込みは全て失敗した。生産された67機はすべてイタリア空軍で運用された。

G.91のその後

ドイツ編

ドイツでは戦場でソ連の襲撃機に散々にやられた経験を、もしくは空飛ぶ対戦車砲やら元・急降下爆撃機の戦果をもとにG.91を襲撃機として導入した。しかしG.91はあくまでも「軽」戦闘機であったため、かつての機種のような重装甲・重武装までは無理な注文であり、その皺寄せは余りに頼りない攻撃力として現れた。

航続距離が1000kmそこそこなのは構わない。メッサーシュミットだってその位だったのだから。しかし搭載力が700kgに満たない程度では、無理すれば1200kg爆弾も積めたJu87にすら劣る有様であり、同じく襲撃機としては頼りないにも程がある。何せ増槽を積んだら、残りは小型爆弾かロケット弾(マトラ製68mmロケット弾18連ポッドorイスパノ製80mmロケット弾ポッドなし19連装)程度しか積めるものが無いのだ。

そんな訳で、例えば同じく離着陸性能を重視しつつも、能力的には世界一級のものを備えたトーネードIDSや、あるいは同様の目的に使えて、更に練習機としても使えるアルファジェットが導入されるにつれて、G.91は姿を消した。こちらも小型をあまり突き詰めすぎない代りに能力では優れ、さらに多彩な兵装も運用でき、襲撃機としては有効な機である。
(ただしドイツではアルファジェットを襲撃機としてのみ運用し、訓練用はフランス仕様となった。冷戦中はドイツ全体が最前線とされたので国内で飛行訓練は行われず、ドイツ空軍の飛行士はアメリカで訓練を受けていた)

イタリア

イタリアは運用インフラの未整備を重要視して、戦場戦闘機型を導入した。
こちらは山がちで大規模な空港を整備しにくいイタリアの自然環境によく適合していた。イタリア軍は国防方針として「上陸した敵軍に対する素早い反撃」を重視しており、そのためどんな場所にも展開できる能力が必要とされていたのである。

イタリアでのG.91は、ドイツでは早く引退したのと打って変わり、長く一線に留まり続けた。
更新は後継たるAMXが完成した後で始まり、最後の機が引退したのは1995年になってからだった。

G.91の最後に

G.91は対地支援を目的とする襲撃機として、もしくは戦場上空の制圧を目的とする戦場戦闘機として用いられた訳だが、目的によってその明暗も大いに分かれた。しかし、離発着性能に重点を置いたおかげで性能そのものは低くなってしまい、特にドイツでは実戦機として求められるべき水準に遠く及ばなかった。当時の技術では、エンジン性能から離着陸性能を最大に割り振ると、このような有様になってしまった。

ただ、朝鮮戦争の戦訓で求められた離着陸性能であったが、これは結局のところ、あまり問題ではなかった。次なるベトナム戦争でも、航空戦力で潤沢なアメリカ陣営と航空戦力に乏しい共産陣営という戦いの構図は繰り返され、上空は制圧しているのに地上は敵の歩兵が跳梁する事態もまた繰り返された。空爆だけでは敵の歩兵を排除しきるには至らず、結局はこちらも歩兵で排除するしかない事が確認されたのである。そして徴兵で数合わせに揃えられた元・シティーボーイでは、独立に燃える北ベトナム兵を留める事は出来ず、その結果が1975年のサイゴン陥落として現れた。

G.91は朝鮮戦争後に西側諸国で模索された「軽戦闘機」に対する一つの答えであり、この長所・短所が続くトーネードに生かされて現在に至っている。G.91が果たして強力な戦闘機だったかと言えば疑問は残ってしまうが、それでも開発系譜でいえばトーネードへの下地を作る、重要な位置を占める戦闘機なのである。


参考

Fiat G.91
Mikoyan-Gurevich MiG-17
Northrop F-5
Dassault/Dornier Alpha Jet
アルファジェット(航空機)
ポルトガルの植民地戦争
FIAT G.91

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