雍正帝
ようせいてい
世宗皇帝 清朝第第5代皇帝 即位44歳 治世13年 康煕と乾隆の間 睡眠時間4時間で政務に就く 過労死皇帝
過労死皇帝 具体的に推測すると、清朝の人事をすべて一人で決める
廟号は世宗。在位1722~1735。
康熙帝(玄燁)の四男。康煕三十七年(1698)に貝勒に封ぜられ、四十八年(1709)に雍親王となった。
熾烈な後継者争いに勝ち抜き、六十一年(1722)に即位した。
軍機処をもうけて、内閣に代わる国政の最高機関とした。土地税と人頭税を一本化して、税収を安定化させた。
対外的には青海・チベットを征服し、露とキャフタ条約を結んで国境線と貿易関係を確定した。
施政は厳格で、近臣や弟であっても処刑・処罰をおこなったという。
為政者の義務を果たすために一日四時間しか眠らず、全国の官僚に内密の上奏文を提出させて、地方政治を監督する独特の「奏摺政治」を展開した。
中国の独裁君主の典型とされており、その評価は褒貶二分されている。
蒼穹の昴より
雍正帝は非常に勤勉で、大量の上奏文に、自ら目を通し、赤字を入れ、返書する徹底した実務家でもあった。
長年の帝位争いは、官僚や役人の不安を招き、不満や流言が各地に蔓延したが、雍正帝はそのような不安を解消するために、地方行政の把握にも努め、功のあった官吏には恩賞を下賜して賞賛を惜しまなかった。
また非常に倹約家で、宮廷の女官や宦官など使用人の数を数百人まで減らし、宮廷費用を抑え、財政に余裕を持たせ、減税をたびたび行った。歴史上もっとも勤勉だった皇帝と評価されている。