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ジョゼ・モウリーニョ

すぺしゃるわん

ジョゼ・モウリーニョ(正式名:José Mario Santos MOURINHO Felix)とは、ポルトガル出身の現レアル・マドリード監督。自らを「スペシャル・ワン」と称する傲慢なキャラと毒舌、そして選手の人心掌握に長ける。

異色の監督「モウリーニョ」

さて、昨今におけるプロサッカークラブの監督は現役時代の活躍度合いはさておいて、一度はプロ経験を積んでいる監督が多い。

ところがこのモウリーニョ、使用人が居るほど裕福な家庭に生まれ育ち(海外においては、サッカーは労働階級層向けの低俗なスポーツ扱い)、さらにはジュニア代表に招集されるが故障や「三流以下の選手だった(本人談)」こともあり、一度としてプロクラブと契約を結んでいない

監督になるまで

リスボンで一度体育教師として就職するが、サッカーの指導者の道を志してスコットランドへ語学留学。イングランドの伝説的プレイヤー、ボビー・ロブソンがポルトガルのサッカークラブ「スポルティング・リスボン」の監督に就任した際に通訳としてスタッフ入り。

ロブソンに大変気に入られ、その後ロブソンが監督就任したチームに通訳としてついて行く。

FCバルセロナでロブソンが去り、後任にルイス・ファン・ハールが就くとここでアシスタントコーチに就任。

指導者としての第一歩を歩み始める。

ポルトガル時代

2000-01シーズンにベンフィカの監督に就任。不調だった同チームを立て直し、ライバルチーム相手に3-0で撃破するなど順風満帆な出だしと思われたが、会長の交代劇などに巻き込まれる形になった為、3-0でライバルチームを破った試合を最後に自らチームを去る。

翌シーズン、中堅チームの監督に就任すると、ここでも辣腕を発揮しシーズン4位と言う同チーム歴代最高位に導く。

そしてそのシーズン途中、不調にあえぐ名門FCポルトに引き抜かれる形で移籍。ここで見事名門の威光を取り戻し、最終順位3位まで持ち直す。

ちなみにこの時の就任会見で、「(当時下位低迷していたポルトを)来季チャンピオンに導く」と不遜な発言をし、メディアの失笑を買っていた。

ところが翌シーズン以降、国内リーグ戦・国内カップ戦・欧州カップ(UEFAチャンピオンズリーグよりワンランク下の大会)の3冠を達成。

更にその次のシーズンではチャンピオンズリーグまで制覇。国内リーグも2連覇を達成し、「名将モウリーニョ」を決定づけた。

チェルシー時代

ポルトでチャンピオンズリーグを制覇した翌シーズンより、ロシアの石油王「ロマン・アブラモビッチ」が買収した事でビッククラブの仲間入りを目指すイングランドの古豪、チェルシーFCへ移籍。ポルト時代よりこの移籍は決まっており、家族がポルトサポーターから脅迫される騒ぎまで発生した。

就任1年目にして、クラブ創立100周年の年に50年ぶりにプレミアリーグ制覇に導き、「名将」の名に偽り無しと言うところを証明した。

就任2年目も独走でフィニッシュし見事連覇を達成。この時セレモニーで送られたメダルを観客席に惜しげも無く投げ入れ、物議を呼んだ。もっともサポーターにしてみれば、最高のパフォーマンスだったが

この連覇でモウリーニョとチェルシーフロントとの蜜月とすら謳われたが、翌シーズンより相次ぐDFの故障からDFのテコ入れを希望するモウリーニョと、それを容認しないフロント側との確執が浮き彫りに。

2007年9月20日、07-08シーズン開幕直後に電撃的に退任。クラブとモウリーニョ本人双方合意のうえでの退団と発表されたが、事実上の解任である事は容易に推測できた。

ちなみにこのシーズン、クラブ史上初のチャンピオンズリーグ決勝進出を果たすが、サポーターの間では「モウリーニョの遺産」と皮肉られた。

2008年6月2日、フリーになっていたところをインテルの監督が解任され、後任を任される。

2008-09シーズンは国内リーグ(前任の監督から数えて3連覇達成)・国内スーパーカップ(日本で言うナビスコカップ)の2冠を達成。チャンピオンズリーグはベスト16止まり。

翌シーズン、国内リーグ・国内カップ・チャンピオンズリーグを全て制覇し、イタリアのプロサッカークラブ史上初の3冠達成という偉業を成し遂げる。

特にチャンピオンズリーグは実に45年ぶりの制覇で、対戦相手はかつての恩師であるルイス・ファン・ハールが率いるチームと言うドラマティックさ。

ところが3冠達成となった国内カップ優勝の記者会見でインテルの監督を辞任すると電撃発言。

その後インテルと現在所属するレアル・マドリード双方の会長による協議の結果、レアル側がインテルに違約金を支払う形でレアル・マドリードへの移籍が成立した。

現在

2010年5月30日にレアル・マドリード側より正式に監督就任が発表された。契約期間は4年。

就任直後は着実に勝ち点を重ね首位をキープするものの、FCバルセロナとの一戦「エル・クラシコ(伝統の一戦 NPBで言う巨人阪神戦みたいなモン)」で0-5と大敗。その後驚異的なペースで勝ちを重ねるバルセロナに及ばず、国内リーグは2位でフィニッシュ。

しかしこの年、過去6年間に渡りベスト16止まりだったチャンピオンズリーグにおいてはベスト4まで導き、国内カップ戦は決勝でバルセロナを破り、17年ぶりの戴冠を達成。この時バルセロナの3冠を阻止している。

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