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赤松政則

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あかまつまさのり

赤松政則とは、室町時代後期~戦国時代初期の武将。嘉吉の乱で一度は滅亡した赤松氏を再興した中興の英主で、その後も幕府との繋がりを強め1代で赤松氏の全盛期を築き上げた。(1455年-1496年)
赤松政則とは、室町時代後期~戦国時代初期の武将。嘉吉の乱で一度は滅亡した赤松氏を再興した中興の英主で、その後も幕府との繋がりを強め1代で赤松氏の全盛期を築き上げた。(1455年-1496年)

概要

概要

播磨などに勢力を有する大名・赤松氏の第9代当主。嘉吉の乱による赤松氏滅亡で不遇の幼少期を送りながらも、旧臣達の尽力で御家再興が成った後はその当主として、細川京兆家などとの繋がりを通じて中央政界における立場を築き、また応仁の乱後の戦乱の時代においても戦国大名への脱皮を果たすなど、一代にして赤松氏の全盛期を現出した中興の英主として知られる。


武将としての才覚だけでなく、能や猿楽や和歌、さらに刀鍛冶など文化面にも秀でたものを持ち合わせており、時の室町幕府将軍・足利義政からも寵愛を受けた教養人であったが、一方で政則の治世下では幼年期から政則を補佐してきた備中守護代・浦上氏や、山名氏との抗争での敗北・失脚の際に復帰に尽力した東播磨守護代・別所氏が台頭し、この事が政則が早逝した後に両者間での権力争い、ひいては赤松氏の内部混乱と勢力減衰に繋がっていく事ともなる。


生涯

生涯

神璽奪還~赤松氏再興

享徳4年2月19日(1455年3月7日)、播磨の武将・赤松時勝(赤松氏第8代当主・赤松満祐の甥)の嫡男として生まれる。幼名・次郎法師丸(以下、法師丸)。

法師丸の誕生から遡ること14年前、赤松氏は大伯父・満祐が起こした嘉吉の乱が原因で幕府軍の討伐を受け、大名家としては滅亡していた。法師丸の祖父・義雅(満祐の実弟)も乱に連座して自害に追い込まれていたため、父・時勝と法師丸は京都建仁寺で養育される事となる。

ところが、彼が誕生してまもなく父・時勝が23歳の若さで急死した。また母も早世したとされ、このような不遇な暮らしぶりの中で幼少の法師丸を支えたのが家臣・浦上則宗であり、これが後に大名家として再興した際の政則・則宗体制の原点となる。


法師丸と則宗主従が不遇の暮らしを送っていた間にも、赤松氏の再興に向けた動きは度々起こっていた。法師丸の同族である赤松則尚は文安年間より播磨奪還に向けて度々兵を起こしており、一時は幕府より播磨返還の約束を取り付けるまでに至っていたが、当時の播磨は山名持豊(宗全)の領有下にあり、則尚は山名軍の反攻に遭い討滅の憂き目に遭った。法師丸の誕生から程ない享徳4年5月の事である。

その後、今度は別方向から赤松氏再興の動きが起こる。康正2年(1456年)、上月満吉(将監)ら赤松氏の遺臣が密かに吉野に入り、後南朝に奪われた神璽に関する情報収集に務めた。三種の神器の一つである神璽は、嘉吉3年(1443年)に発生した禁闕の変の際に後南朝側に奪われたままであり、赤松氏の遺臣らはこれを奪還し朝廷に返上するという手柄を上げる事で、赤松氏の再興を幕府や朝廷に認めさせようとしたのである。

上月ら赤松氏旧臣らは1年にも及ぶ調査の末、後南朝が行宮を置いていた奥吉野の北山に神璽がある事を突き止める。そして長禄元年(1457年)の末、赤松氏遺臣らは遂に計画を実行し、南朝後胤とされる一の宮(自天王)、二の宮(忠義王)を殺害、彼らが持っていた神璽を持ち去るものの、吉野の郷民らの反撃に遭いこの時は失敗に終わる。しかし赤松氏遺臣らはなおも神璽奪還を諦めず、翌長禄2年(1458)年春に大和の豪族らの力を借りて再度神璽を吉野より持ち去り、無事朝廷に返上するに至ったのである。


その功績により、赤松氏も法師丸が家督を継ぐ形での再興が幕府から認められる事になった。また同時に加賀北半国の守護職や所領も与えられた。赤松氏再興並びにこれらの勲功の数々には、前出の山名宗全に対抗するという意図から、幕府の実力者であった細川勝元の口添えもあったという。

御家再興より7年後の寛正6年(1465年)12月26日、11歳で元服を迎えた法師丸は8代将軍・[[足利義政の偏諱を受け、名を政則と改める。この間、先の神璽奪還の勲功として与えられた加賀・備前の所領では、それぞれ旧主であった富樫氏や山名氏らの抵抗もあったものの、在地の国人らの中には赤松氏に協力的な者もおり、困難を極めながらも着実に支配を進めていた。

元服の翌年には、諸大名の反発から将軍側近らが追放される文正の政変が発生。この時政則も、追放された側近の一人である季瓊真蘂と関係が深かった(真蘂は赤松氏の支族の出であり、御家再興の際にも関与があったとされる)事から一時失脚するが、程なく細川勝元の支援で政界に復帰した。


応仁・文明の乱

応仁元年(1467年)に発生した応仁・文明の乱において、政則は細川方の東軍に付いた。予てより敵対していた山名氏が西軍の主体であった事、そしてその山名氏が当時領有していた赤松氏の旧領を回復する事が、政則が東軍に参加した大きな要因であった。

政則自身は京都にて西軍と戦いつつ、一方で山名軍の主力が京に集結し領国の守りが薄くなっているのを狙い、大乱発生直後の応仁元年5月より家臣の宇野政秀を播磨・備前・美作に侵攻させ、これら3カ国をわずか1年で奪回する事に成功した。また乱の最中には、西軍に与していた斯波義廉の重臣・朝倉孝景の寝返り工作にも協力している。

しかし旧領回復も束の間、今度は赤松氏の内部より騒動の火の手が上がる。赤松氏の一族で将軍・義政の寵臣でもあった有馬元家が、赤松氏本家の家督を狙い謀反を企てたのである。この企ては程なくして政則が元家を誅殺した事で鎮圧となるも、この一件はその後長らく続く事となる内紛の端緒に過ぎなかった。


文明5年(1474年)、当時の両軍の首脳であった細川政元(細川勝元の嫡男)と山名政豊(山名宗全の嫡孫)が単独で和睦。しかし政則にとって、戦乱の終結は奪回した3か国を失う事にも繋がりかねないため、この講和には最後まで反対するなど東軍内における主戦派としてあり続けた。

結局応仁・文明の乱は文明9年(1477年)に勝敗のつかぬまま終結、政則が戦中に得た旧領も安堵されたが、この大乱の間に浦上氏が主家に迫る勢力を付けて行った事が、主君である赤松氏とのその後の関係にも大きく影響していく事となる。


播磨の内紛

応仁・文明の乱では数少ない、勢力を伸長した大名であったにも拘らず、文明10年(1478年)頃から赤松氏の播磨支配にも動揺が見られだした。先の有馬氏に続いて、今度はやはり同族の在田氏との対立が本格化し出したのである。元々在田氏は乱の最中の文明3年(1471年)に仙洞御料所の松井荘を横領し一度は鎮圧されていたが、その後も対立関係は文明14年(1482年)頃まで尾を引く事となった。

また文明11年(1479年)になると、寺社領政策を巡る幕府の意向に背いたとして、幕府から出仕停止を命じられるなど、それまで良好であった中央政界における立場にも陰りが見え始めた。この時期既に幕府将軍は足利義尚が継いでいたものの、依然として幕政に影響力を有する父・義政とは深刻な対立関係にあり、この事が義政の寵臣であった政則の立場にも少なからず影響を与えたと見る向きもある。


山名氏との抗争

赤松氏による旧領回復は、それまで当地を支配していた山名氏との対立の火種となり、応仁・文明の乱の終結後も両者間での争いが絶える事はなかった。政則は山名領である因幡の国人・毛利貞元を支援して因幡山名氏を圧迫させたり、伯耆でも山名氏の同族争いを利用してその勢力を削ごうとするも、いずれも失敗に終わっている。

山名氏への有効な手立てを見出せずにいる中、文明15年(1483年)に備前の国人で赤松氏の被官であった松田元成が、山名軍を手引きした事で赤松領への侵攻が開始された。この事態を前に政則は、浦上則宗の要請により山名軍の攻勢に曝されていた福岡城へ援軍を送る一方、自身はあくまで山名氏の本領である但馬攻めに拘り、赤松軍は二分して山名軍と当たる格好となった。

しかし政則率いる軍勢は、同年末に真弓峠にて垣屋氏を主力とした山名軍に大敗。逆に播磨への追撃を許したばかりか、後詰の失敗により福岡城の陥落という事態を招いた。さらに政則自身も生き残った家臣らと姫路を目指す途中で行方不明になるなど、一連の戦いを通して大失態を演じた。


この大敗に則宗は激怒し、翌文明16年(1484年)には政則の守護職・家督の廃位を宣言、さらに則宗と小寺則職ら重臣が一時的に実権を握り、政則は堺への逃亡を余儀なくされた。しかしこうした則宗らの専横とも言える動きは帰って家中の混乱に拍車をかける結果となってしまい、さらに山名氏がその間隙を突いて美作と備前を奪取するなど、今度は則宗らが政則の復帰を求める家臣らの突き上げに遭う格好となった。

こうした中、政則は別所則治の助力を得て幕府の後援の取り付け、そして播磨への帰還を果たす。足利義政の仲介もあって政則と則宗が和解すると、文明17年(1487年)には真弓峠にて垣屋宗続らを討ち取るなど先の大敗の雪辱を果たし、これを境に赤松軍は一気に反転攻勢に転じた。政則は軍事行動だけでなく、細川政元との関係強化を通して山名氏への援護の動きを封じるなど外交面でも優位に立ち、度重なる連勝の末に坂本城の戦いで長年に亘る抗争に決着を付け、山名氏の勢力を播磨より駆逐せしめたのである。


突然の死

この一連の抗争の後、政則を筆頭にして浦上・別所・龍野赤松など奉行人が分担・連携の下、赤松領の統治が行われていくようになった。また中央政界での立場の強化にも努め、延徳3年(1491年)の長享・延徳の乱に従軍し、11月に軍奉行となって勲功を重ねた。

明応2年(1493年)、堺に在陣していた政則は細川政元の姉・洞松院(めし)を正室に迎えている。これは直後に政元らが起こした明応の政変に関連して、政則を自陣営に引き込むための政略結婚という側面もあった。元は龍安寺にて仏門に入っていた洞松院はこの時すでに30を越えており、また不器量で知られていた事から、この婚姻を皮肉った落首が京都で貼られたと伝わる。


明応5年(1496年)閏2月には、将軍・足利一門以外では前例のなかった従三位に叙位される。このあまりに異例、ともすれば分不相応とも言える昇進に周囲が当惑を禁じ得ない中、政則は同年4月25日(1496年6月6日)、宿所としていた播磨の長円寺にて急死した。まだ42歳という働き盛りの死であったが、この頃政則は既に病を患っており、病中の気晴らしにと鷹狩りに出たのが却って病状を悪化させたとも言われている。

政則には亡くなった時点で村秀という男子と、洞松院との間にもうけた娘の小めしの二人の子がいたが、村秀は庶子な上にわずか4歳だったため一族からの支持を得られず、浦上氏や別所氏ら重臣の画策により小めしと、同族の七条義村を婚約させて跡継ぎとした。しかし義村もまた若年であった事から、家中では播州錯乱と呼ばれる内紛も起こるなど、政則没後の赤松氏は再び混迷の時代に突入していく事となる。


関連タグ

戦国大名


信長の野望

信長の野望

『蒼天録PK』のみに登場しているが、政則が没して権力争いや下剋上等で弱体化した赤松家の武将は、『信長の野望』シリーズでは過小評価をされている。政則も影響を受けているが、赤松家の一門では唯一内政が72と高めに設定されている。

概要

概要

播磨などに勢力を有する大名・赤松氏の第9代当主。嘉吉の乱による赤松氏滅亡で不遇の幼少期を送りながらも、旧臣達の尽力で御家再興が成った後はその当主として、細川京兆家などとの繋がりを通じて中央政界における立場を築き、また応仁の乱後の戦乱の時代においても戦国大名への脱皮を果たすなど、一代にして赤松氏の全盛期を現出した中興の英主として知られる。


武将としての才覚だけでなく、能や猿楽や和歌、さらに刀鍛冶など文化面にも秀でたものを持ち合わせており、時の室町幕府将軍・足利義政からも寵愛を受けた教養人であったが、一方で政則の治世下では幼年期から政則を補佐してきた備中守護代・浦上氏や、山名氏との抗争での敗北・失脚の際に復帰に尽力した東播磨守護代・別所氏が台頭し、この事が政則が早逝した後に両者間での権力争い、ひいては赤松氏の内部混乱と勢力減衰に繋がっていく事ともなる。


生涯

生涯

神璽奪還~赤松氏再興

享徳4年2月19日(1455年3月7日)、播磨の武将・赤松時勝(赤松氏第8代当主・赤松満祐の甥)の嫡男として生まれる。幼名・次郎法師丸(以下、法師丸)。

法師丸の誕生から遡ること14年前、赤松氏は大伯父・満祐が起こした嘉吉の乱が原因で幕府軍の討伐を受け、大名家としては滅亡していた。法師丸の祖父・義雅(満祐の実弟)も乱に連座して自害に追い込まれていたため、父・時勝と法師丸は京都建仁寺で養育される事となる。

ところが、彼が誕生してまもなく父・時勝が23歳の若さで急死した。また母も早世したとされ、このような不遇な暮らしぶりの中で幼少の法師丸を支えたのが家臣・浦上則宗であり、これが後に大名家として再興した際の政則・則宗体制の原点となる。


法師丸と則宗主従が不遇の暮らしを送っていた間にも、赤松氏の再興に向けた動きは度々起こっていた。法師丸の同族である赤松則尚は文安年間より播磨奪還に向けて度々兵を起こしており、一時は幕府より播磨返還の約束を取り付けるまでに至っていたが、当時の播磨は山名持豊(宗全)の領有下にあり、則尚は山名軍の反攻に遭い討滅の憂き目に遭った。法師丸の誕生から程ない享徳4年5月の事である。

その後、今度は別方向から赤松氏再興の動きが起こる。康正2年(1456年)、上月満吉(将監)ら赤松氏の遺臣が密かに吉野に入り、後南朝に奪われた神璽に関する情報収集に務めた。三種の神器の一つである神璽は、嘉吉3年(1443年)に発生した禁闕の変の際に後南朝側に奪われたままであり、赤松氏の遺臣らはこれを奪還し朝廷に返上するという手柄を上げる事で、赤松氏の再興を幕府や朝廷に認めさせようとしたのである。

上月ら赤松氏旧臣らは1年にも及ぶ調査の末、後南朝が行宮を置いていた奥吉野の北山に神璽がある事を突き止める。そして長禄元年(1457年)の末、赤松氏遺臣らは遂に計画を実行し、南朝後胤とされる一の宮(自天王)、二の宮(忠義王)を殺害、彼らが持っていた神璽を持ち去るものの、吉野の郷民らの反撃に遭いこの時は失敗に終わる。しかし赤松氏遺臣らはなおも神璽奪還を諦めず、翌長禄2年(1458)年春に大和の豪族らの力を借りて再度神璽を吉野より持ち去り、無事朝廷に返上するに至ったのである。


その功績により、赤松氏も法師丸が家督を継ぐ形での再興が幕府から認められる事になった。また同時に加賀北半国の守護職や所領も与えられた。赤松氏再興並びにこれらの勲功の数々には、前出の山名宗全に対抗するという意図から、幕府の実力者であった細川勝元の口添えもあったという。

御家再興より7年後の寛正6年(1465年)12月26日、11歳で元服を迎えた法師丸は8代将軍・[[足利義政の偏諱を受け、名を政則と改める。この間、先の神璽奪還の勲功として与えられた加賀・備前の所領では、それぞれ旧主であった富樫氏や山名氏らの抵抗もあったものの、在地の国人らの中には赤松氏に協力的な者もおり、困難を極めながらも着実に支配を進めていた。

元服の翌年には、諸大名の反発から将軍側近らが追放される文正の政変が発生。この時政則も、追放された側近の一人である季瓊真蘂と関係が深かった(真蘂は赤松氏の支族の出であり、御家再興の際にも関与があったとされる)事から一時失脚するが、程なく細川勝元の支援で政界に復帰した。


応仁・文明の乱

応仁元年(1467年)に発生した応仁・文明の乱において、政則は細川方の東軍に付いた。予てより敵対していた山名氏が西軍の主体であった事、そしてその山名氏が当時領有していた赤松氏の旧領を回復する事が、政則が東軍に参加した大きな要因であった。

政則自身は京都にて西軍と戦いつつ、一方で山名軍の主力が京に集結し領国の守りが薄くなっているのを狙い、大乱発生直後の応仁元年5月より家臣の宇野政秀を播磨・備前・美作に侵攻させ、これら3カ国をわずか1年で奪回する事に成功した。また乱の最中には、西軍に与していた斯波義廉の重臣・朝倉孝景の寝返り工作にも協力している。

しかし旧領回復も束の間、今度は赤松氏の内部より騒動の火の手が上がる。赤松氏の一族で将軍・義政の寵臣でもあった有馬元家が、赤松氏本家の家督を狙い謀反を企てたのである。この企ては程なくして政則が元家を誅殺した事で鎮圧となるも、この一件はその後長らく続く事となる内紛の端緒に過ぎなかった。


文明5年(1474年)、当時の両軍の首脳であった細川政元(細川勝元の嫡男)と山名政豊(山名宗全の嫡孫)が単独で和睦。しかし政則にとって、戦乱の終結は奪回した3か国を失う事にも繋がりかねないため、この講和には最後まで反対するなど東軍内における主戦派としてあり続けた。

結局応仁・文明の乱は文明9年(1477年)に勝敗のつかぬまま終結、政則が戦中に得た旧領も安堵されたが、この大乱の間に浦上氏が主家に迫る勢力を付けて行った事が、主君である赤松氏とのその後の関係にも大きく影響していく事となる。


播磨の内紛

応仁・文明の乱では数少ない、勢力を伸長した大名であったにも拘らず、文明10年(1478年)頃から赤松氏の播磨支配にも動揺が見られだした。先の有馬氏に続いて、今度はやはり同族の在田氏との対立が本格化し出したのである。元々在田氏は乱の最中の文明3年(1471年)に仙洞御料所の松井荘を横領し一度は鎮圧されていたが、その後も対立関係は文明14年(1482年)頃まで尾を引く事となった。

また文明11年(1479年)になると、寺社領政策を巡る幕府の意向に背いたとして、幕府から出仕停止を命じられるなど、それまで良好であった中央政界における立場にも陰りが見え始めた。この時期既に幕府将軍は足利義尚が継いでいたものの、依然として幕政に影響力を有する父・義政とは深刻な対立関係にあり、この事が義政の寵臣であった政則の立場にも少なからず影響を与えたと見る向きもある。


山名氏との抗争

赤松氏による旧領回復は、それまで当地を支配していた山名氏との対立の火種となり、応仁・文明の乱の終結後も両者間での争いが絶える事はなかった。政則は山名領である因幡の国人・毛利貞元を支援して因幡山名氏を圧迫させたり、伯耆でも山名氏の同族争いを利用してその勢力を削ごうとするも、いずれも失敗に終わっている。

山名氏への有効な手立てを見出せずにいる中、文明15年(1483年)に備前の国人で赤松氏の被官であった松田元成が、山名軍を手引きした事で赤松領への侵攻が開始された。この事態を前に政則は、浦上則宗の要請により山名軍の攻勢に曝されていた福岡城へ援軍を送る一方、自身はあくまで山名氏の本領である但馬攻めに拘り、赤松軍は二分して山名軍と当たる格好となった。

しかし政則率いる軍勢は、同年末に真弓峠にて垣屋氏を主力とした山名軍に大敗。逆に播磨への追撃を許したばかりか、後詰の失敗により福岡城の陥落という事態を招いた。さらに政則自身も生き残った家臣らと姫路を目指す途中で行方不明になるなど、一連の戦いを通して大失態を演じた。


この大敗に則宗は激怒し、翌文明16年(1484年)には政則の守護職・家督の廃位を宣言、さらに則宗と小寺則職ら重臣が一時的に実権を握り、政則は堺への逃亡を余儀なくされた。しかしこうした則宗らの専横とも言える動きは帰って家中の混乱に拍車をかける結果となってしまい、さらに山名氏がその間隙を突いて美作と備前を奪取するなど、今度は則宗らが政則の復帰を求める家臣らの突き上げに遭う格好となった。

こうした中、政則は別所則治の助力を得て幕府の後援の取り付け、そして播磨への帰還を果たす。足利義政の仲介もあって政則と則宗が和解すると、文明17年(1487年)には真弓峠にて垣屋宗続らを討ち取るなど先の大敗の雪辱を果たし、これを境に赤松軍は一気に反転攻勢に転じた。政則は軍事行動だけでなく、細川政元との関係強化を通して山名氏への援護の動きを封じるなど外交面でも優位に立ち、度重なる連勝の末に坂本城の戦いで長年に亘る抗争に決着を付け、山名氏の勢力を播磨より駆逐せしめたのである。


突然の死

この一連の抗争の後、政則を筆頭にして浦上・別所・龍野赤松など奉行人が分担・連携の下、赤松領の統治が行われていくようになった。また中央政界での立場の強化にも努め、延徳3年(1491年)の長享・延徳の乱に従軍し、11月に軍奉行となって勲功を重ねた。

明応2年(1493年)、堺に在陣していた政則は細川政元の姉・洞松院(めし)を正室に迎えている。これは直後に政元らが起こした明応の政変に関連して、政則を自陣営に引き込むための政略結婚という側面もあった。元は龍安寺にて仏門に入っていた洞松院はこの時すでに30を越えており、また不器量で知られていた事から、この婚姻を皮肉った落首が京都で貼られたと伝わる。


明応5年(1496年)閏2月には、将軍・足利一門以外では前例のなかった従三位に叙位される。このあまりに異例、ともすれば分不相応とも言える昇進に周囲が当惑を禁じ得ない中、政則は同年4月25日(1496年6月6日)、宿所としていた播磨の長円寺にて急死した。まだ42歳という働き盛りの死であったが、この頃政則は既に病を患っており、病中の気晴らしにと鷹狩りに出たのが却って病状を悪化させたとも言われている。

政則には亡くなった時点で村秀という男子と、洞松院との間にもうけた娘の小めしの二人の子がいたが、村秀は庶子な上にわずか4歳だったため一族からの支持を得られず、浦上氏や別所氏ら重臣の画策により小めしと、同族の七条義村を婚約させて跡継ぎとした。しかし義村もまた若年であった事から、家中では播州錯乱と呼ばれる内紛も起こるなど、政則没後の赤松氏は再び混迷の時代に突入していく事となる。


関連タグ

戦国大名


信長の野望

信長の野望

『蒼天録PK』のみに登場しているが、政則が没して権力争いや下剋上等で弱体化した赤松家の武将は、『信長の野望』シリーズでは過小評価をされている。政則も影響を受けているが、赤松家の一門では唯一内政が72と高めに設定されている。

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赤松政則とは、室町時代後期~戦国時代初期の武将。嘉吉の乱で一度は滅亡した赤松氏を再興した中興の英主で、その後も幕府との繋がりを強め1代で赤松氏の全盛期を築き上げた。(1455年-1496年)
赤松政則とは、室町時代後期~戦国時代初期の武将。嘉吉の乱で一度は滅亡した赤松氏を再興した中興の英主で、その後も幕府との繋がりを強め1代で赤松氏の全盛期を築き上げた。(1455年-1496年)

概要

概要

播磨などに勢力を有する大名・赤松氏の第9代当主。嘉吉の乱による赤松氏滅亡で不遇の幼少期を送りながらも、旧臣達の尽力で御家再興が成った後はその当主として、細川京兆家などとの繋がりを通じて中央政界における立場を築き、また応仁の乱後の戦乱の時代においても戦国大名への脱皮を果たすなど、一代にして赤松氏の全盛期を現出した中興の英主として知られる。


武将としての才覚だけでなく、能や猿楽や和歌、さらに刀鍛冶など文化面にも秀でたものを持ち合わせており、時の室町幕府将軍・足利義政からも寵愛を受けた教養人であったが、一方で政則の治世下では幼年期から政則を補佐してきた備中守護代・浦上氏や、山名氏との抗争での敗北・失脚の際に復帰に尽力した東播磨守護代・別所氏が台頭し、この事が政則が早逝した後に両者間での権力争い、ひいては赤松氏の内部混乱と勢力減衰に繋がっていく事ともなる。


生涯

生涯

神璽奪還~赤松氏再興

享徳4年2月19日(1455年3月7日)、播磨の武将・赤松時勝(赤松氏第8代当主・赤松満祐の甥)の嫡男として生まれる。幼名・次郎法師丸(以下、法師丸)。

法師丸の誕生から遡ること14年前、赤松氏は大伯父・満祐が起こした嘉吉の乱が原因で幕府軍の討伐を受け、大名家としては滅亡していた。法師丸の祖父・義雅(満祐の実弟)も乱に連座して自害に追い込まれていたため、父・時勝と法師丸は京都建仁寺で養育される事となる。

ところが、彼が誕生してまもなく父・時勝が23歳の若さで急死した。また母も早世したとされ、このような不遇な暮らしぶりの中で幼少の法師丸を支えたのが家臣・浦上則宗であり、これが後に大名家として再興した際の政則・則宗体制の原点となる。


法師丸と則宗主従が不遇の暮らしを送っていた間にも、赤松氏の再興に向けた動きは度々起こっていた。法師丸の同族である赤松則尚は文安年間より播磨奪還に向けて度々兵を起こしており、一時は幕府より播磨返還の約束を取り付けるまでに至っていたが、当時の播磨は山名持豊(宗全)の領有下にあり、則尚は山名軍の反攻に遭い討滅の憂き目に遭った。法師丸の誕生から程ない享徳4年5月の事である。

その後、今度は別方向から赤松氏再興の動きが起こる。康正2年(1456年)、上月満吉(将監)ら赤松氏の遺臣が密かに吉野に入り、後南朝に奪われた神璽に関する情報収集に務めた。三種の神器の一つである神璽は、嘉吉3年(1443年)に発生した禁闕の変の際に後南朝側に奪われたままであり、赤松氏の遺臣らはこれを奪還し朝廷に返上するという手柄を上げる事で、赤松氏の再興を幕府や朝廷に認めさせようとしたのである。

上月ら赤松氏旧臣らは1年にも及ぶ調査の末、後南朝が行宮を置いていた奥吉野の北山に神璽がある事を突き止める。そして長禄元年(1457年)の末、赤松氏遺臣らは遂に計画を実行し、南朝後胤とされる一の宮(自天王)、二の宮(忠義王)を殺害、彼らが持っていた神璽を持ち去るものの、吉野の郷民らの反撃に遭いこの時は失敗に終わる。しかし赤松氏遺臣らはなおも神璽奪還を諦めず、翌長禄2年(1458)年春に大和の豪族らの力を借りて再度神璽を吉野より持ち去り、無事朝廷に返上するに至ったのである。


その功績により、赤松氏も法師丸が家督を継ぐ形での再興が幕府から認められる事になった。また同時に加賀北半国の守護職や所領も与えられた。赤松氏再興並びにこれらの勲功の数々には、前出の山名宗全に対抗するという意図から、幕府の実力者であった細川勝元の口添えもあったという。

御家再興より7年後の寛正6年(1465年)12月26日、11歳で元服を迎えた法師丸は8代将軍・[[足利義政の偏諱を受け、名を政則と改める。この間、先の神璽奪還の勲功として与えられた加賀・備前の所領では、それぞれ旧主であった富樫氏や山名氏らの抵抗もあったものの、在地の国人らの中には赤松氏に協力的な者もおり、困難を極めながらも着実に支配を進めていた。

元服の翌年には、諸大名の反発から将軍側近らが追放される文正の政変が発生。この時政則も、追放された側近の一人である季瓊真蘂と関係が深かった(真蘂は赤松氏の支族の出であり、御家再興の際にも関与があったとされる)事から一時失脚するが、程なく細川勝元の支援で政界に復帰した。


応仁・文明の乱

応仁元年(1467年)に発生した応仁・文明の乱において、政則は細川方の東軍に付いた。予てより敵対していた山名氏が西軍の主体であった事、そしてその山名氏が当時領有していた赤松氏の旧領を回復する事が、政則が東軍に参加した大きな要因であった。

政則自身は京都にて西軍と戦いつつ、一方で山名軍の主力が京に集結し領国の守りが薄くなっているのを狙い、大乱発生直後の応仁元年5月より家臣の宇野政秀を播磨・備前・美作に侵攻させ、これら3カ国をわずか1年で奪回する事に成功した。また乱の最中には、西軍に与していた斯波義廉の重臣・朝倉孝景の寝返り工作にも協力している。

しかし旧領回復も束の間、今度は赤松氏の内部より騒動の火の手が上がる。赤松氏の一族で将軍・義政の寵臣でもあった有馬元家が、赤松氏本家の家督を狙い謀反を企てたのである。この企ては程なくして政則が元家を誅殺した事で鎮圧となるも、この一件はその後長らく続く事となる内紛の端緒に過ぎなかった。


文明5年(1474年)、当時の両軍の首脳であった細川政元(細川勝元の嫡男)と山名政豊(山名宗全の嫡孫)が単独で和睦。しかし政則にとって、戦乱の終結は奪回した3か国を失う事にも繋がりかねないため、この講和には最後まで反対するなど東軍内における主戦派としてあり続けた。

結局応仁・文明の乱は文明9年(1477年)に勝敗のつかぬまま終結、政則が戦中に得た旧領も安堵されたが、この大乱の間に浦上氏が主家に迫る勢力を付けて行った事が、主君である赤松氏とのその後の関係にも大きく影響していく事となる。


播磨の内紛

応仁・文明の乱では数少ない、勢力を伸長した大名であったにも拘らず、文明10年(1478年)頃から赤松氏の播磨支配にも動揺が見られだした。先の有馬氏に続いて、今度はやはり同族の在田氏との対立が本格化し出したのである。元々在田氏は乱の最中の文明3年(1471年)に仙洞御料所の松井荘を横領し一度は鎮圧されていたが、その後も対立関係は文明14年(1482年)頃まで尾を引く事となった。

また文明11年(1479年)になると、寺社領政策を巡る幕府の意向に背いたとして、幕府から出仕停止を命じられるなど、それまで良好であった中央政界における立場にも陰りが見え始めた。この時期既に幕府将軍は足利義尚が継いでいたものの、依然として幕政に影響力を有する父・義政とは深刻な対立関係にあり、この事が義政の寵臣であった政則の立場にも少なからず影響を与えたと見る向きもある。


山名氏との抗争

赤松氏による旧領回復は、それまで当地を支配していた山名氏との対立の火種となり、応仁・文明の乱の終結後も両者間での争いが絶える事はなかった。政則は山名領である因幡の国人・毛利貞元を支援して因幡山名氏を圧迫させたり、伯耆でも山名氏の同族争いを利用してその勢力を削ごうとするも、いずれも失敗に終わっている。

山名氏への有効な手立てを見出せずにいる中、文明15年(1483年)に備前の国人で赤松氏の被官であった松田元成が、山名軍を手引きした事で赤松領への侵攻が開始された。この事態を前に政則は、浦上則宗の要請により山名軍の攻勢に曝されていた福岡城へ援軍を送る一方、自身はあくまで山名氏の本領である但馬攻めに拘り、赤松軍は二分して山名軍と当たる格好となった。

しかし政則率いる軍勢は、同年末に真弓峠にて垣屋氏を主力とした山名軍に大敗。逆に播磨への追撃を許したばかりか、後詰の失敗により福岡城の陥落という事態を招いた。さらに政則自身も生き残った家臣らと姫路を目指す途中で行方不明になるなど、一連の戦いを通して大失態を演じた。


この大敗に則宗は激怒し、翌文明16年(1484年)には政則の守護職・家督の廃位を宣言、さらに則宗と小寺則職ら重臣が一時的に実権を握り、政則は堺への逃亡を余儀なくされた。しかしこうした則宗らの専横とも言える動きは帰って家中の混乱に拍車をかける結果となってしまい、さらに山名氏がその間隙を突いて美作と備前を奪取するなど、今度は則宗らが政則の復帰を求める家臣らの突き上げに遭う格好となった。

こうした中、政則は別所則治の助力を得て幕府の後援の取り付け、そして播磨への帰還を果たす。足利義政の仲介もあって政則と則宗が和解すると、文明17年(1487年)には真弓峠にて垣屋宗続らを討ち取るなど先の大敗の雪辱を果たし、これを境に赤松軍は一気に反転攻勢に転じた。政則は軍事行動だけでなく、細川政元との関係強化を通して山名氏への援護の動きを封じるなど外交面でも優位に立ち、度重なる連勝の末に坂本城の戦いで長年に亘る抗争に決着を付け、山名氏の勢力を播磨より駆逐せしめたのである。


突然の死

この一連の抗争の後、政則を筆頭にして浦上・別所・龍野赤松など奉行人が分担・連携の下、赤松領の統治が行われていくようになった。また中央政界での立場の強化にも努め、延徳3年(1491年)の長享・延徳の乱に従軍し、11月に軍奉行となって勲功を重ねた。

明応2年(1493年)、堺に在陣していた政則は細川政元の姉・洞松院(めし)を正室に迎えている。これは直後に政元らが起こした明応の政変に関連して、政則を自陣営に引き込むための政略結婚という側面もあった。元は龍安寺にて仏門に入っていた洞松院はこの時すでに30を越えており、また不器量で知られていた事から、この婚姻を皮肉った落首が京都で貼られたと伝わる。


明応5年(1496年)閏2月には、将軍・足利一門以外では前例のなかった従三位に叙位される。このあまりに異例、ともすれば分不相応とも言える昇進に周囲が当惑を禁じ得ない中、政則は同年4月25日(1496年6月6日)、宿所としていた播磨の長円寺にて急死した。まだ42歳という働き盛りの死であったが、この頃政則は既に病を患っており、病中の気晴らしにと鷹狩りに出たのが却って病状を悪化させたとも言われている。

政則には亡くなった時点で村秀という男子と、洞松院との間にもうけた娘の小めしの二人の子がいたが、村秀は庶子な上にわずか4歳だったため一族からの支持を得られず、浦上氏や別所氏ら重臣の画策により小めしと、同族の七条義村を婚約させて跡継ぎとした。しかし義村もまた若年であった事から、家中では播州錯乱と呼ばれる内紛も起こるなど、政則没後の赤松氏は再び混迷の時代に突入していく事となる。


関連タグ

戦国大名


信長の野望

信長の野望

『蒼天録PK』のみに登場しているが、政則が没して権力争いや下剋上等で弱体化した赤松家の武将は、『信長の野望』シリーズでは過小評価をされている。政則も影響を受けているが、赤松家の一門では唯一内政が72と高めに設定されている。

概要

概要

播磨などに勢力を有する大名・赤松氏の第9代当主。嘉吉の乱による赤松氏滅亡で不遇の幼少期を送りながらも、旧臣達の尽力で御家再興が成った後はその当主として、細川京兆家などとの繋がりを通じて中央政界における立場を築き、また応仁の乱後の戦乱の時代においても戦国大名への脱皮を果たすなど、一代にして赤松氏の全盛期を現出した中興の英主として知られる。


武将としての才覚だけでなく、能や猿楽や和歌、さらに刀鍛冶など文化面にも秀でたものを持ち合わせており、時の室町幕府将軍・足利義政からも寵愛を受けた教養人であったが、一方で政則の治世下では幼年期から政則を補佐してきた備中守護代・浦上氏や、山名氏との抗争での敗北・失脚の際に復帰に尽力した東播磨守護代・別所氏が台頭し、この事が政則が早逝した後に両者間での権力争い、ひいては赤松氏の内部混乱と勢力減衰に繋がっていく事ともなる。


生涯

生涯

神璽奪還~赤松氏再興

享徳4年2月19日(1455年3月7日)、播磨の武将・赤松時勝(赤松氏第8代当主・赤松満祐の甥)の嫡男として生まれる。幼名・次郎法師丸(以下、法師丸)。

法師丸の誕生から遡ること14年前、赤松氏は大伯父・満祐が起こした嘉吉の乱が原因で幕府軍の討伐を受け、大名家としては滅亡していた。法師丸の祖父・義雅(満祐の実弟)も乱に連座して自害に追い込まれていたため、父・時勝と法師丸は京都建仁寺で養育される事となる。

ところが、彼が誕生してまもなく父・時勝が23歳の若さで急死した。また母も早世したとされ、このような不遇な暮らしぶりの中で幼少の法師丸を支えたのが家臣・浦上則宗であり、これが後に大名家として再興した際の政則・則宗体制の原点となる。


法師丸と則宗主従が不遇の暮らしを送っていた間にも、赤松氏の再興に向けた動きは度々起こっていた。法師丸の同族である赤松則尚は文安年間より播磨奪還に向けて度々兵を起こしており、一時は幕府より播磨返還の約束を取り付けるまでに至っていたが、当時の播磨は山名持豊(宗全)の領有下にあり、則尚は山名軍の反攻に遭い討滅の憂き目に遭った。法師丸の誕生から程ない享徳4年5月の事である。

その後、今度は別方向から赤松氏再興の動きが起こる。康正2年(1456年)、上月満吉(将監)ら赤松氏の遺臣が密かに吉野に入り、後南朝に奪われた神璽に関する情報収集に務めた。三種の神器の一つである神璽は、嘉吉3年(1443年)に発生した禁闕の変の際に後南朝側に奪われたままであり、赤松氏の遺臣らはこれを奪還し朝廷に返上するという手柄を上げる事で、赤松氏の再興を幕府や朝廷に認めさせようとしたのである。

上月ら赤松氏旧臣らは1年にも及ぶ調査の末、後南朝が行宮を置いていた奥吉野の北山に神璽がある事を突き止める。そして長禄元年(1457年)の末、赤松氏遺臣らは遂に計画を実行し、南朝後胤とされる一の宮(自天王)、二の宮(忠義王)を殺害、彼らが持っていた神璽を持ち去るものの、吉野の郷民らの反撃に遭いこの時は失敗に終わる。しかし赤松氏遺臣らはなおも神璽奪還を諦めず、翌長禄2年(1458)年春に大和の豪族らの力を借りて再度神璽を吉野より持ち去り、無事朝廷に返上するに至ったのである。


その功績により、赤松氏も法師丸が家督を継ぐ形での再興が幕府から認められる事になった。また同時に加賀北半国の守護職や所領も与えられた。赤松氏再興並びにこれらの勲功の数々には、前出の山名宗全に対抗するという意図から、幕府の実力者であった細川勝元の口添えもあったという。

御家再興より7年後の寛正6年(1465年)12月26日、11歳で元服を迎えた法師丸は8代将軍・[[足利義政の偏諱を受け、名を政則と改める。この間、先の神璽奪還の勲功として与えられた加賀・備前の所領では、それぞれ旧主であった富樫氏や山名氏らの抵抗もあったものの、在地の国人らの中には赤松氏に協力的な者もおり、困難を極めながらも着実に支配を進めていた。

元服の翌年には、諸大名の反発から将軍側近らが追放される文正の政変が発生。この時政則も、追放された側近の一人である季瓊真蘂と関係が深かった(真蘂は赤松氏の支族の出であり、御家再興の際にも関与があったとされる)事から一時失脚するが、程なく細川勝元の支援で政界に復帰した。


応仁・文明の乱

応仁元年(1467年)に発生した応仁・文明の乱において、政則は細川方の東軍に付いた。予てより敵対していた山名氏が西軍の主体であった事、そしてその山名氏が当時領有していた赤松氏の旧領を回復する事が、政則が東軍に参加した大きな要因であった。

政則自身は京都にて西軍と戦いつつ、一方で山名軍の主力が京に集結し領国の守りが薄くなっているのを狙い、大乱発生直後の応仁元年5月より家臣の宇野政秀を播磨・備前・美作に侵攻させ、これら3カ国をわずか1年で奪回する事に成功した。また乱の最中には、西軍に与していた斯波義廉の重臣・朝倉孝景の寝返り工作にも協力している。

しかし旧領回復も束の間、今度は赤松氏の内部より騒動の火の手が上がる。赤松氏の一族で将軍・義政の寵臣でもあった有馬元家が、赤松氏本家の家督を狙い謀反を企てたのである。この企ては程なくして政則が元家を誅殺した事で鎮圧となるも、この一件はその後長らく続く事となる内紛の端緒に過ぎなかった。


文明5年(1474年)、当時の両軍の首脳であった細川政元(細川勝元の嫡男)と山名政豊(山名宗全の嫡孫)が単独で和睦。しかし政則にとって、戦乱の終結は奪回した3か国を失う事にも繋がりかねないため、この講和には最後まで反対するなど東軍内における主戦派としてあり続けた。

結局応仁・文明の乱は文明9年(1477年)に勝敗のつかぬまま終結、政則が戦中に得た旧領も安堵されたが、この大乱の間に浦上氏が主家に迫る勢力を付けて行った事が、主君である赤松氏とのその後の関係にも大きく影響していく事となる。


播磨の内紛

応仁・文明の乱では数少ない、勢力を伸長した大名であったにも拘らず、文明10年(1478年)頃から赤松氏の播磨支配にも動揺が見られだした。先の有馬氏に続いて、今度はやはり同族の在田氏との対立が本格化し出したのである。元々在田氏は乱の最中の文明3年(1471年)に仙洞御料所の松井荘を横領し一度は鎮圧されていたが、その後も対立関係は文明14年(1482年)頃まで尾を引く事となった。

また文明11年(1479年)になると、寺社領政策を巡る幕府の意向に背いたとして、幕府から出仕停止を命じられるなど、それまで良好であった中央政界における立場にも陰りが見え始めた。この時期既に幕府将軍は足利義尚が継いでいたものの、依然として幕政に影響力を有する父・義政とは深刻な対立関係にあり、この事が義政の寵臣であった政則の立場にも少なからず影響を与えたと見る向きもある。


山名氏との抗争

赤松氏による旧領回復は、それまで当地を支配していた山名氏との対立の火種となり、応仁・文明の乱の終結後も両者間での争いが絶える事はなかった。政則は山名領である因幡の国人・毛利貞元を支援して因幡山名氏を圧迫させたり、伯耆でも山名氏の同族争いを利用してその勢力を削ごうとするも、いずれも失敗に終わっている。

山名氏への有効な手立てを見出せずにいる中、文明15年(1483年)に備前の国人で赤松氏の被官であった松田元成が、山名軍を手引きした事で赤松領への侵攻が開始された。この事態を前に政則は、浦上則宗の要請により山名軍の攻勢に曝されていた福岡城へ援軍を送る一方、自身はあくまで山名氏の本領である但馬攻めに拘り、赤松軍は二分して山名軍と当たる格好となった。

しかし政則率いる軍勢は、同年末に真弓峠にて垣屋氏を主力とした山名軍に大敗。逆に播磨への追撃を許したばかりか、後詰の失敗により福岡城の陥落という事態を招いた。さらに政則自身も生き残った家臣らと姫路を目指す途中で行方不明になるなど、一連の戦いを通して大失態を演じた。


この大敗に則宗は激怒し、翌文明16年(1484年)には政則の守護職・家督の廃位を宣言、さらに則宗と小寺則職ら重臣が一時的に実権を握り、政則は堺への逃亡を余儀なくされた。しかしこうした則宗らの専横とも言える動きは帰って家中の混乱に拍車をかける結果となってしまい、さらに山名氏がその間隙を突いて美作と備前を奪取するなど、今度は則宗らが政則の復帰を求める家臣らの突き上げに遭う格好となった。

こうした中、政則は別所則治の助力を得て幕府の後援の取り付け、そして播磨への帰還を果たす。足利義政の仲介もあって政則と則宗が和解すると、文明17年(1487年)には真弓峠にて垣屋宗続らを討ち取るなど先の大敗の雪辱を果たし、これを境に赤松軍は一気に反転攻勢に転じた。政則は軍事行動だけでなく、細川政元との関係強化を通して山名氏への援護の動きを封じるなど外交面でも優位に立ち、度重なる連勝の末に坂本城の戦いで長年に亘る抗争に決着を付け、山名氏の勢力を播磨より駆逐せしめたのである。


突然の死

この一連の抗争の後、政則を筆頭にして浦上・別所・龍野赤松など奉行人が分担・連携の下、赤松領の統治が行われていくようになった。また中央政界での立場の強化にも努め、延徳3年(1491年)の長享・延徳の乱に従軍し、11月に軍奉行となって勲功を重ねた。

明応2年(1493年)、堺に在陣していた政則は細川政元の姉・洞松院(めし)を正室に迎えている。これは直後に政元らが起こした明応の政変に関連して、政則を自陣営に引き込むための政略結婚という側面もあった。元は龍安寺にて仏門に入っていた洞松院はこの時すでに30を越えており、また不器量で知られていた事から、この婚姻を皮肉った落首が京都で貼られたと伝わる。


明応5年(1496年)閏2月には、将軍・足利一門以外では前例のなかった従三位に叙位される。このあまりに異例、ともすれば分不相応とも言える昇進に周囲が当惑を禁じ得ない中、政則は同年4月25日(1496年6月6日)、宿所としていた播磨の長円寺にて急死した。まだ42歳という働き盛りの死であったが、この頃政則は既に病を患っており、病中の気晴らしにと鷹狩りに出たのが却って病状を悪化させたとも言われている。

政則には亡くなった時点で村秀という男子と、洞松院との間にもうけた娘の小めしの二人の子がいたが、村秀は庶子な上にわずか4歳だったため一族からの支持を得られず、浦上氏や別所氏ら重臣の画策により小めしと、同族の七条義村を婚約させて跡継ぎとした。しかし義村もまた若年であった事から、家中では播州錯乱と呼ばれる内紛も起こるなど、政則没後の赤松氏は再び混迷の時代に突入していく事となる。


関連タグ

戦国大名


信長の野望

信長の野望

『蒼天録PK』のみに登場しているが、政則が没して権力争いや下剋上等で弱体化した赤松家の武将は、『信長の野望』シリーズでは過小評価をされている。政則も影響を受けているが、赤松家の一門では唯一内政が72と高めに設定されている。

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